【主日礼拝メッセージ要約】ペンテコステ

                                                 2007年5月27日   

「主イエスの名によって」 

使徒言行録19章1-7節

高橋淑郎牧師

  

 今日は、聖霊降臨を記念する「ペンテコステ」です。ペンテコステと言えば、わたし達はあの使徒言行録2章の出来事を思い起こします。命の神が、この地上に弟子たちを呼び集めてキリストを頭とした一つの体とし、キリストの教会を創造して下さった記念すべき喜びの日です。

 さて、 パウロはエフェソという町に入って、バプテスマの意味とその目的を教えたところ、彼らはイエスの名によるバプテスマを受けました。そしてパウロが彼らの上に手を按いたところ、聖霊が臨まれました。聖別された群れ、聖別された教会の誕生です。

 バプテスマとは「浸(しず)める」という意味です。自己中心的な生き方をしていた古い罪びとのわたしが、十字架のキリストと共に、「死んで葬られ」た、わたしという罪びとのお葬式です。

 またバプテスマとは、「新生」という意味があります。罪を悔改めてイエスを救い主キリストと信じる者は、聖霊によって新しく創造されて、復活されたキリストによって永遠の命に甦らされたのです。

 あなたは今日まで心のうちに神の存在を疑いながら、しかし全く否定もできずにいたかもしれません。あなたは今日まで自分さえしっかりしていたら正しい人生を送ることができるという固い信念のもとに生きてこられたかもしれません。果たしてその信念はあなたを裏切らなかったでしょうか。罪の誘惑に負けないで日を過ごすことができたでしょうか。恐らく心の内は敗北感でいっぱいの毎日ではなかったでしょうか。

 しかし、今はもうこのお方をよくご存知です。聖霊だけがあなたを勝利の人生に導いて下さることをあなたは知ったからです。この聖霊が、主イエス・キリストを信じる信仰へとあなたを導き、あなたに悔い改めの心を起こさせ、救い主イエスの御許に導いてくださいます。今はあなたの心に主イエスを信じる思いが与えられていることをあなたは知っておられるはずです。バプテスマへとあなたを導く内なる声に素直であってください。あなたも主の教会の一員となって、聖霊降臨を記念する喜び、祝う仲間入りをしてください。

 

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 【主日礼拝メッセージ】 ペンテコステ                                     2007年5月27日   

「主イエスの名によって」 

使徒言行録19章1-7節

高橋淑郎牧師

 

 アポロがコリントへ行ったのと入れ違いに、パウロがエフェソにやってきました。アジア州の首都であるエフェソを訪問することは、パウロにとって長年の祈りでした。第二回伝道旅行の際、この町での福音宣教を計画に入れていましたが、その時は聖霊に禁じられましたから、断念しました(16:6)。しかし、そこには主の深い計画があり、パウロは不思議な導きから、ヨーロッパ伝道への道が開かれ、フィリピ、テサロニケ、コリントなどギリシャの町々に教会が生まれました。そしてエルサレムに帰る途中、エフェソに立ち寄る機会を得ましたが、そう長く留まることができないまま、エルサレムに帰って行ったのです(18:18−23)。

 そして、今第3回伝道旅行では、シリアのアンティオキアを出発して、ガラテヤ、フリギア地方を巡回してようやく念願のエフェソ伝道が実現しました。エフェソでは、実に3年もの間滞在し、伝道したしています(20:31)。開拓伝道の使命に生きるパウロにして見れば、一つ所にこんなに長く留まったのは珍しいことです。それほどこの町にかける彼の情熱は並々ならぬものがあったと言えます。

 

 さて、パウロはこの町に入ってすぐに、「何人かの弟子に出会い」ました。そして、彼らに向かって単刀直入に、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねました。すると、彼らは聖霊の存在さえ知らないというので、重ねて、「どんなバプテスマを受けたのですか」と訊(き)くと、「ヨハネのバプテスマです」という答えが返ってきました。この禅問答のようなやり取りは、今の私たちにはなかなか分かり辛いことです。しかしそれに続く、パウロの説明を手がかりに聖書を読み直すと、少しは理解できるのではないでしょうか。彼はエフェソの弟子たちに、バプテスマの意味とその目的を教えたところ、彼らはバプテスマを受けました。さらにパウロが手を置いて祈ったところ、彼らの上に聖霊が臨みましたから、彼らは全く新しい人に造り変えられ、異言を語り、預言をしました。異言と言うのは、それを語っている人以外、その言葉の意味は分からないのですが、内容は神への讃美です。預言と言うのは、聖書に基いて神の御言葉を取り次いでくれますから、その意味は明白です。

 さて、ここでもう一度バプテスマと、それに伴う聖霊の介在について、その意味をお話しておきますと、教会が授けるバプテスマとは、三位一体の神、即ち父なる神と子なるキリスト、聖霊の名によるものであることは言うまでもありません。

 バプテスマとは「浸(しず)める」という意味ですが、それには「死と葬り」の意味があります。イエス・キリストが罪びとのわたしのために十字架に死んでくださったことを知って悔改めるのですが、ここに言う「悔い改め」とは、自己中心的な生き方に何の疑問も抱かなかった古い罪びとのわたしが、十字架のキリストと共に、「死んで葬られる」という意味です。わたしという罪びとのお葬式です。

 さらに、バプテスマとは、「新しく生まれる」という意味があります。天地創造の初め、神はアダムに命の息を吹き入れてくださいましたが、罪を悔改めてイエスを救い主キリストと信じる人は、聖霊によって新しく創造されて、復活のキリストによって永遠の命に甦らされたのです。ヨハネのバプテスマにも意味がありますが、悔い改めで留まっていてはならないのです。聖霊なる神の息吹、新しい創造としての新しい命の注ぎが必要なのです。

 今日は、はからずも聖霊降臨を記念するペンテコステです。ペンテコステと言えば、わたし達はあの使徒言行録2章の出来事を思い起こします。命の神が、この地上にキリストの弟子たちを呼び集めて一つのキリストを頭とした体とし、キリストの教会を創造して下さった記念すべき喜びの日です。(ギリシャ語でいうエクレシアの日本語訳「教会」とは、本来「キリストに呼び集められた群れ」という意味です)

 しかし、あの出来事に符合するような出来事が、このエフェソの町でも起りました。彼らが主イエスの名によってバプテスマを受けたときも、聖霊が彼らの上に臨み、異言を語らせ、預言をさせました。神は、なぜ同じことを二度までもなさったのでしょうか。あの使徒言行録2章の出来事だけでは不十分だったのでしょうか。それとも、これから後も必要と思し召したら、神は度々教会の上に聖霊を降されるのでしょうか。そうではありません。使徒言行録2章だけで十分でしたし、これから後もたびたび聖霊を降すことはなさいません。聖霊は既に主イエスを信じ、受け入れる全てのキリスト教会の中に、その教会を構成するキリスト者一人ひとりに内住して下さっているからです。

 では、神はなぜエフェソの弟子たちの上に聖霊を降されたのでしょうか。これは、神の深い摂理によるものです。神がエルサレムに続いて、ここエフェソでも聖霊を降されたのは、ご自身の栄光を世界の隅々まで輝かせるためでした。もう一つ言えば、この出来事は教会を本当の意味で一つに結びつけるためでした。

 というのは、聖霊降臨という、あの大きな経験をしたエルサレムの教会ですが、残念ながら彼らの中に、狭い聖書理解にこだわって他を受け入れようとしない人々がいました。エルサレムで聖霊降臨を経験したのはユダヤ人でした。そこでユダヤ人クリスチャンの間に、「キリストの教会は私たちユダヤ人の間でとどめておくべきだ。」という固定観念が出来上がっていました。このことがエルサレム教会会議の必要を生むきっかけとなりました(15章)。パウロとバルナバは、「異邦人にも福音を宣べ伝えるべきだし、彼らの間にも主の教会が建て上げられるべきだ。」と主張しました。多くの人々もパウロとバルナバの意見を聖書的に正しいと判断して、異邦人伝道の道が明確にされました。しかし、全てのユダヤ人クリスチャンが、心からこの決議に賛成していたわけではなく、パウロの働きに対して何かと批判的でした。こうした狭い教会観を正すには、神ご自身の介入が必要です。それがエフェソにおける聖霊降臨の出来事の意味でした。エルサレムで聖霊降臨を経験したのは12使徒でしたが、エフェソでも12人の弟子たちがこの出来事の経験者、また証人として選ばれました。異邦人の上にも聖霊が降られたからには、もはや誰も口出しできません。

 

 そこで、なぜ、ヨハネのバプテスマを受けた彼らが、改めてイエスの名によるバプテスマを受ける必要があったのかということについて、聖書を通して考えて見ましょう。わたし達にとって最も基本的で、大切な問題だからです。これは、いわゆる「再洗礼」という問題とは違います。先ほどもお話しましたが、バプテスマとは、自己中心的であった古い罪びとのわたしが、十字架のキリストと共に「死んで葬られ」るわたしのお葬式です。そしてバプテスマとは、聖霊によって新しく創造されて、復活されたキリストの命によって永遠の命を賜ったわたしの誕生日でもあるのです。

 「バプテスマとは何か」を理解できないままで、何度水に身を浸めても、それはただ水浴したに過ぎず、全く空しい限りです。エフェソの弟子たちのバプテスマは、バプテスマの受け直しではないのです。彼らは、聖書を通して正しい知識を学び、正しい理解のもとに本物のバプテスマを受けることができたのです。

 もう一つ、聖霊とはどういうお方かということを理解しておく必要があります。セイレイと言っても、それはおとぎ話の中で活躍する「精霊」ではありません。「聖い霊」のことであり、三位一体の神さまのことです。聖霊は主イエスとのかかわりで考えるべきです。聖霊は私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださるただ一人のお方です。聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると口に言い表すことができないからです(气Rリント12:3)。聖霊はわたしたちを罪と罪の誘惑から守る清め主です(气ハネ1:7,9)。聖霊は罪を犯したわたし達を神のみ前に弁護してくださる助け主なのです(ヨハネ14:16,26,15:26、气ハネ2:1)。

 

 あなたは今日まで心のうちに神の存在を疑いながら、しかし全く否定もできずにいたかもしれません。あなたは今日まで自分さえしっかりしていたら正しい人生を送ることができるという固い信念のもとに生きてこられたかもしれません。果たしてその信念はあなたを裏切らなかったでしょうか。罪の誘惑に負けないで日を過ごすことができたでしょうか。恐らく心の内は敗北感でいっぱいの毎日ではなかったでしょうか。

 あなたは今日まで「聖霊があるかどうか、聞いたこともない」ひとりであったかもしれません。しかし、今日から大丈夫です。今はもうこのお方をよくご存知です。聖霊だけがあなたを勝利の人生に導いてくださることをあなたは知ったからです。この聖霊が、主イエス・キリストを信じる信仰へとあなたを導き、あなたに悔い改めの心を起こさせ、救い主イエスのもとに導いてくださいます。今はもうあなたの心に主イエスを信じる思いが与えられていることをあなたは知っておられるはずです。バプテスマへとあなたを導いてくださる内なる声に素直であってください。あなたも主の教会の一員となって、聖霊降臨を記念する喜び、祝う仲間入りをしてください。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

聖霊が弟子たちの上に降り、キリスト・イエスの教会が誕生した大いなる恵みを記念すべきこの日、あなたは奇しくも使徒言行録19章を通して異邦人の上にも同じ恵みをもたらしてくださった出来事を教えてくださいました。主よ、感謝します。

どうか、あなたの栄光がこの地に満ち溢れますように。どうか、この教会がますますあなたの喜びとなりますように。どうか、十字架のきわみまであなたが示してくださった愛に応答する献身者をこの教会から起こしてくださいますように、

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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