【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年6月24日                                                   

言葉を尽くして励まし 

使徒言行録20章1-6節

高橋淑郎牧師

 

 今日、「言葉を尽くす」努力が不足している時代です。ともすれば自分の言葉数を多くするだけで、相手に聴くということが忘れられがちです。その結果何が起るかというと、人を傷つけたり、ひどい場合は命のやり取りまでしています。「言葉を尽くす」とは、対話を膨らますという意味でもあるのです。対話によって相手の人が励まされ、慰められなければなりません。自己満足的な言葉数の多さは、相手の心をより深く傷つけてしまいます。

 「牧会カウンセリング読本 こころを聴く」(三永恭平著)の中に、次のような一節があります。「まず、これから話を聴こうとしている人の心の波長にこちらの心のダイヤルを合わせようとすることだ、と言ったらよいでしょうか。これをチューニングといいます。・・・最初ダイアルが合っていない時には、何にも聞こえてはきません。しかし、すこしずつ合わせていくうちに、だんだん聞こえてくるようになります。・・・わたくしたちが人の心の声やその調を聴くのも、それと同じで、その人の心の周波数(感情の波長)にこちらの心のダイアルを調整することがまず第一に必要です。それが合っていないと相手の心は何にも聞こえないからです。」と。

 主イエスやパウロの伝道、牧会にも共通点が見られます。主イエスこそ、まず相手の心の周波数に御自分を合わせておられます。パウロも主イエスに学んで、「聴く」という事から始めています。その結果実に多くの人の心が解放されて慰められ、励まされ、悔い改めの心が起こされて新しい人生を歩み始めています。

 更に、「祈り」こそ、神との対話の最も重要な基本です。わたし達は祈る時、神との心のチューニングから始めているでしょうか。神はすでに、私たちの祈りを聴く準備をして下さっています。問題はわたし達です。わたしの心の解放、隣人の救いのために、わたし達は、いつも神との豊かな交わり、御言による励ましを受けていなければなりません。皆さんはいかがでしょうか。神に、人に、自分の思いをぶつけるばかりで、自分の心を一層追い込む結果になってはいないでしょうか。「まずチューニング」を忘れてはいないでしょうか。救いを求める魂を見逃し、聴き逃してしまってはいないでしょうか。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                             2007年6月24日                                                   

言葉を尽くして励まし 

使徒言行録20章1-6節

高橋淑郎牧師

 

 今日から次の週まで、「神学校週間」です。礼拝の後、壮年の方々がこれについて詳しくお話して下さいますから、皆さん楽しみにしてください。その前に、わたしの方からも連盟の歴史を簡単にご紹介しましょう。

 わたし達は日本バプテスト連盟という教派に所属する群れです。この連盟は今からさかのぼる118年前の1889年に、米国南部バプテスト連盟が派遣したマッコ−ラム、ブランソンの二人が、当時福岡県若松市で、「日本バプテスト西部組合」の宣教師として活動したことに始まります。1940年に日本基督教団に合流しましたが、1947年には16の教会が教団から離脱、「日本バプテスト連盟」発足を宣言して今日に至っています(2006年度現在、連盟は277教会、51伝道所)。

 伝道には何が必要かと言いますと、土地・会堂と共に伝道者とその養成機関である神学校、更に教鞭をとる人が必要です。しかし、何と言っても肝心の献身者が起こされなければなりません。どうぞ講壇から取り次ぐ神からのメッセージと、壮年方のアピールに耳を傾け、あなたが今何をなすべきかを聴き取り、応答して下さい。

 

 さて、パウロを評して、「炎の人」と呼んだ人がいますが、この箇所から受けたわたしの印象は、「忍耐の人」です。厳しい迫害の嵐にも耐え、同胞であれ、異邦人であれ、主の愛で「言葉を尽くして励まし」ながら、人々を救いに導き、信仰の訓練を与える人でした。こうして教会の土台は据えられて固くされ、小アジアからヨーロッパにかけて信徒の数も、教会の数も増していきました。しかも、彼はそれを自分の功績であるかのような言い方を決してしません。それどころか、「自分を全く取るに足りない者と思い、・・・主にお仕えしてきました。」(20:19)というように、どこまでも主イエス・キリストの御業に負うところ大であったと告白しています。

 ところでこの20章では同行者のリストの中に、「わたしたち」(6節)とあるように、著者(ルカ)自身も再び合流して、その一行に加わっていたことがわかります。もう一つ注目すべきは、第3回伝道旅行の仕上げとも言うべきコースとそれぞれの町に、パウロの滞在した期間を詳細に記録していることです。エフェソには3年(20:31)の間、またギリシャ、これは恐らくコリントであろうと思われますが、そこに三ヶ月滞在したということです。それにしてもパウロはこのエフェソにどうして3年もの間滞在する必要があったのでしょうか。勿論これまで読んで来ましたように、エフェソ伝道も外の町同様、厳しいものがありました。それだけに時間をかけて伝道し、丁寧な牧会が必要であったのかもしれません。しかし、実はそれだけではありません。この箇所ではこれ以上わかりませんが、气Rリント16:5−11、コリント2:12−17などを読むと、3年に及ぶエフェソ滞在は、むしろ、問題だらけのコリントの教会との往復書簡(失われたものを含めると、パウロは少なくとも、4つの手紙を書き送ったことが分かります)に時間とエネルギーを費やしたようです。また、この後コリント教会を訪問していますが、そこでも3ヶ月の間滞在しています。パウロはその間テルティオの口述筆記を得ながら、忙しい伝道の傍ら、ローマの信徒への手紙を書き送っています。

 

 使徒パウロは、マケドニア州を巡りながら、「言葉を尽くして人々を励ました」(2節)ということです。聖書によっては、「多くの言葉で・・・」と訳しているものもあります。人と人とのコミュニケーションがうまくいかず、対話が成立しないことは、寂しいものです。対話を豊かにし、心と心の出会いが成立するためには、時には多くの言葉が必要です。しかし、ここにいう「言葉を尽くす」とは、ただ言葉数を多くするのではなく、相手の言葉に耳を傾けるという意味も含まれているのではないでしょうか。良き語り手は、よき聴き手でもあると言われますが、パウロの個人伝道や牧会は、その意味で「言葉を尽くして励ます」ことになったのではないでしょうか。

 今日、「言葉を尽くす」努力が不足していたり、全くなされない時代です。ともすれば自分の言葉数を多くするだけで、相手に聴くということが忘れられがちです。その結果何が起るかというと、人を傷つけたり、ひどい場合は命のやり取りへと陥ってしまっているのです。「言葉を尽くす」、「多くの言葉」とは、対話を膨らますという意味でもあるのです。対話によって相手の人が励まされ、慰められなければなりません。自己満足的な言葉数の多さは、相手の心をより深く傷つけてしまいかねないからです。 

 「牧会カウンセリング読本 こころを聴く」(三永恭平著)という本の中に、次のような一節があります。「まず、これから話を聴こうとしている人の心の波長にこちらの心のダイヤルを合わせようとすることだ、と言ったらよいでしょうか。これをチューニングといいます。・・・最初ダイアルが合っていない時には、何にも聞こえてはきません。しかし、すこしずつ合わせていくうちに、だんだん聞こえてくるようになります。・・・わたくしたちが人の心の声やその調を聴くのも、それと同じで、その人の心の周波数(感情の波長)にこちらの心のダイアルを調整することがまず第一に必要です。それが合っていないと相手の心は何にも聞こえないからです。」と。

 本当はもう少し長く引用したいのですが、時間の関係で、以上にしておきます。主イエスやパウロの用いた伝道、牧会にも共通点が見られます。主イエスこそ、まず相手の心の周波数に御自分を合わせておられます。パウロもまた主イエスに学んで、まず「聴く」という事から始めています。その結果実に多くの人の心が解放されて慰められ、励まされ、悔い改めの心が起こされて新しい人生へと歩みを始めています。

 もう一つ、「祈り」こそ、神との対話の最も重要な基本であることを思うとき、わたし達は祈るとき、まず神との心のチューニングから始めているでしょうか。神はすでに、私たちの祈りを聴く準備をしてくださっています。問題はわたし達です。わたしの心の解放、かかわっている人の救いのためにも、わたし達は、私たち自身、いつも神との豊かな交わり、豊かな御言による励ましを受けていなければなりません。皆さんはいかがでしょうか。神に、人に、自分の思いをぶつけるばかりで、自分の心を一層追い込む結果になってはいないでしょうか。「まずチューニング」を忘れてはいないでしょうか。救いを求める魂を見逃し、聴き逃してしまってはいないでしょうか。

祈ります。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

使徒パウロは、エフェソを中心に黙示録にある七つの教会を開拓し、マケドニアやアカイアでもいくつものキリストの教会を立ち上げました。福音宣教のために熱心に働く傍ら、出会う全ての人や教会と手紙を通し、また対話の中で、豊かな言葉で人々を励まし、慰め、元気を与えました。しかし、彼はこれら働きの果を自分の功績とせず、「自分を全く取るに足りないものと思い、涙を流しながら、また数々の試練に会いながら、主にお仕えしてきました。」と謙虚に振り返っています。

主よ、わたし達の対話もこのように豊かなものにしてください。わたし達の一言が人々の慰めとなり、心に元気を与え、あすの力となりますように言を清め、お導きください。

今日から神学校週間に入ります。豊かな対話、それによる慰め、元気、力はこの世の人々が今最も必要としている時代です。どうか、この教会の中からそのような言葉をあなたから戴き、それを携えて献身する人、神学校への道を踏み出す人を起こしてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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