【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年7月1日                                                   

大いに慰められた  

使徒言行録20章7-12節

高橋淑郎牧師

 

 パウロは翌朝まで話し続けましたが、名残尽きない思いを振り切るように船出して行きました。ここで不思議なのは、この場に居合わせたルカはこの使徒言行録の著者なのに、パウロがこの夜どんな話をしたのか、その内容についてほんの少しでも知りたい私たち読者の思いをよそに一言も触れていません。ただパウロの話が長かったことと、エウティコという若者の死から生還したという出来事を書いているだけです。なぜでしょうか。

 もしルカが、パウロの話の内容を書いたとしたら、膨大な字数となり、頁数になったことでしょう。その後でエウティコの事件を書いたにしても、私たち読者の目と心は、どうしてもパウロの説教の内容に引き付けられて、「さすがパウロ先生のメッセージはすごいなあ。」という感想で持ちきりとなり、エウティコの事件は心の片隅に追いやられてしまい、礼拝に集められた人々がどうして慰められて帰って行ったのか、焦点がぼやけてしまったことでしょう。だからこそ、ルカは、敢えてパウロの話の内容ではなく、エウティコに対してなされた聖霊の不思議な御業と大いなる慰めに注目して、それを私たちに伝えたかったのです。

 礼拝とは何でしょうか。聖歌隊の歌う美しい讃美歌に心洗われる人があって良いでしょう。その日聴いたメッセージのあの言葉、この言葉に、或いはどことは言えないが、全体に一週間の生活にヒントを頂いた、教えられるものがあったということもあって良いでしょう。しかし、それだけで十分でしょうか。讃美の歌を通して、また御言の取次ぎを通して、一人びとりに寄り添って下さる聖霊が、この世では決して得ることのできない豊かな慰めに包み込まれている確信を得ることこそ大事です。きょう礼拝に導いて下さった神は、再び誘惑に満ちたこの世の厳しい荒波の中にも、あなたを伴って下さるのです。あのエウティコに再び命を注いでくださった神は、あなたの内にも聖霊による豊かな命の息吹を注ぎ込んで下さることでしょう。これが礼拝によって得られる慰めというものです。あなたは一人ではないのです。インマヌエルの主イエスがあなたの人生に寄り添って下さいます。さあ、主があなたの手を取ってここから導き出して下さいます。勇気を持って出て行きましょう。そして、また来週ここに帰ってきて、共に感謝の礼拝をささげましょう。

 

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 【主日礼拝メッセージ】                                    2007年7月1日                                                   

大いに慰められた  

使徒言行録20章7-12節

高橋淑郎牧師

 

 パウロたち一行はトロアスで一週間を過ごしましたが、七日目の夜、ある信徒の家の屋上で集会が開かれました。当時ユダヤ人の一般家庭では、屋上に欄干を設けて、旅人に一夜の宿を提供する部屋が造られていたり、ちょっとした集まりを持てるように工夫されていたそうです。その日は週の初めの日ですから、主日(日曜)礼拝をささげたのです。今日、「主の晩餐式」を毎主日開くキリスト教会は少なくなりましたが、この当時は毎週、礼拝の中で欠かさず開かれていました。明日はいよいよこの地ともお別れという最後の晩、パウロのメッセージは主の晩餐を挟んで、いよいよ熱を帯びて延々と続きました。毎週のことならいくら話し好きのパウロでもこんなに長くは話さなかったでしょうが、今宵でこのトロアスの地を離れ、明日はこの港から出帆するのです。もしかしたら、今夜がこの教会の人たちとの地上における最後の時となるかもしれません。語るパウロの目に涙、聴く会衆の目にも涙です。それですから、パウロにしてもあのことを話しておきたい、このことも聴いてもらいたい、というように、送別のメッセージは尽きることなく続くのでした。

 しかし、この涙、涙の礼拝の最中(さなか)に一つの事件が起りました。このお屋敷の屋上がどれくらいの広さであったか分かりませんが、満堂隙間もないほど人々でぎっしりです。エウティコという名の若者は、おそらく仕事で遅れてきたのでしょう、どこもかしこも人でいっぱいです。だから、危険を承知で窓に腰掛けて、それでもパウロの話に聴き入っていました。当時、日曜日を休日にする習慣などありませんでしたから、パウロもほかの人たちも、一日の仕事を終えて、それから礼拝をささげるというのが普通でした。エウティコは若者であったとわざわざ紹介していますが、年若いだけに彼の雇い主は、かなり遅くまで仕事をさせていたのかもしれません。疲れていたでしょう。お腹も空いていたことでしょうが、それでも彼は一目パウロ先生の顔を見たかったのです。ほんの少しでも話を聴きたかったのです。でも、若いとはいえ彼も人の子です。心は燃えていても肉体の疲れはどうしようもなく、睡魔が彼のまぶたを次第にふさがせていきました。初めの内は窓から落ちないようにと手で支え、体を前かがみにしていたのでしょうが、眠りが深くなるに従って、次第に支えている手の力が抜けていきます。そしてとうとう地上に落下してしまいました。その礼拝にはこの使徒言行録の著者ルカもいました。彼の本業は医者でした(コロサイ4:14)。そのルカが見て、エウティコは死んだと、はっきりと診断を下しています。パウロとの送別礼拝で悲しみ一杯の彼らの心に、もう一つ悲しみが加わりました。しかし、使徒パウロはこの若者のそばに近寄り、かがみこんで彼を抱きかかえて、「騒ぐな、まだ生きている。」と言いながら、恐らくこの若者を再び屋上の間に抱え上げて、途中となった主の晩餐を続け、明け方までメッセージを取り次いだということです。

 わたしにもこれに近い経験があります。ある教会で礼拝メッセージを取り次いでいました。勿論そんなに長いお話をしていたわけではありませんが、それこそ一人の若者が何か「キーッ」というような言葉とも、うなり声ともつかない叫びを発したかと思うと、その場にドーッと崩れ落ちました。礼拝は中断されました。当然会堂の中は大騒ぎになりました。「誰か救急車を!」という人もいました。当然だと思います。しかし、わたしは彼のところに駆け寄ってそれこそ抱き上げてみると、理由は分かりませんが、彼は死んではいない。という確信が与えられましたから、「大丈夫、別の部屋に寝かしておきなさい。」と言って、礼拝を続けました。礼拝が終わって皆で昼食をとっていると、彼も起きてきて、何事もなかったように、一緒にうどんを口にしました。それを見て一同の心にどれほどの平安と慰めが与えられたことでしょうか。しかし、もしあのまま彼が起き上がってこないで死んでしまっていたら、わたしの責任は重大です。今ここでこうして講壇に立ってはいないでしょう。ただ主の憐れみが彼の上に注がれ、わたしに対して、人には説明のつかない確信を与えて下さっていたとしか言いようがありません。

 

 さて、パウロは翌朝まで話を続け、名残尽きない思いを振り切るように、船出して行きました。ここで不思議なのは、この涙の送別礼拝に満堂立錐の余地もない人々が集められ、長い長いパウロの話を聴いたのに、取り分けルカはこの使徒言行録の著者としてこの場に居合わせたのに、パウロがこの夜どんな話をしたのか、その内容についてほんの少しでも知りたい私たち読者の思いをよそに一言も触れていません。ただパウロの話が長かったことと、エウティコという若者の死から生還したという出来事を書いているだけです。なぜでしょうか。

 実に学ぶべきことは、著者ルカの目はしっかりと見るべきものを視、聞くべきことを聴き取って悟り、それを筆にしているということです。もしルカがここで、パウロがあの夜どんな話をしたか、それをつまびらかに書き記したとしたら、使徒言行録は膨大な字数となり、頁数になったことでしょう。すると、その後でエウティコの事件を書いたにしても、私たち読者の目と心は、どうしてもパウロの説教の内容に引き付けられて、「さすがパウロ先生のメッセージはすごいなあ。」という感想で持ちきりとなり、エウティコの事件は心の片隅に追いやられてしまい、この夜礼拝に集められた人々がどうして慰められて帰って行ったのか、焦点がぼやけてしまったことでしょう。

 そうです。ルカは敢えてパウロの話の内容ではなく、エウティコに対してなされた聖霊の不思議な御業、会衆に対する大いなる慰めに注目して、それを私たちに伝えています。それは偉大な働き人に勝る聖霊の御業こそ尊いことを私たちに悟らせるためです。

 礼拝とは何でしょうか。聖歌隊の歌う、美しい讃美歌に心洗われるということがあって良いでしょう。その日聴いたメッセージのあの言葉、この言葉に、或いはどことは言えないが、全体に一週間の生活にヒントを頂いた、教えられるものがあった。ためになったということもあって良いでしょう。

 しかし、礼拝の意義はそれだけではありません。神は礼拝をささげるわたしたちに、讃美の歌を通して、また御言の取次ぎを通して、あなたがた一人びとりに寄り添い、この世では決して得ることのできない豊かな慰めをもって包み込んでくださるのです。この会堂に導いてくださった神は、再び誘惑に満ちたこの世の厳しい荒波の中にも、あなたを孤立させることなく、あなたに伴ってくださるのです。あのエウティコに再び命を注ぎいれてくださった神は、あなたの内にも聖霊による豊かな命の息吹を注ぎ込んでくださることでしょう。これが礼拝によって得られる慰めというものです。あなたは決して一人ではないのです。インマヌエル(神我らと共にいます)の主イエスがあなたの人生に伴ってくださいます。

 主があなたの手を取ってここから導き出してくださるのですから、勇気をもってあなたの家庭に、職場に、地域社会へと出て行きましょう。そして、また来週ここに帰ってきて、共に感謝の礼拝をささげましょう。 

 

 祈ります。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

 トロアスの町で使徒パウロの決別メッセージを聴いた人々は、深い感動に包まれたことでしょう。しかしその礼拝の最中にエウティコの身に起った出来事は、一層人々の心に強く焼き付けられるものとなりました。あの夜の礼拝を最後に、偉大な働き人パウロとは今生の別れとなりましたが、これまでパウロを用いて大いなる御業を示してくださった聖霊は、パウロに去られて後も、決して彼らを離れず、全ての点で助け主として教会を励まし、またそこに集う人々の慰め主として働き続けてくださるとの確信を得ました。これに勝る喜び、平安はありません。だから、彼らは大いに慰められながら家路につくことができました。

 天のお父さま、あなたはあの時の慰め主でした。そして今もあなたに依り頼む私たちの内に生きて働いて下さる全能の主です。どうかこの仙川キリスト教会の愛する群れをこれから後もあなたのみ腕の中に抱き、持ち運び、全ての危険から守ってください。そして、あなたの僕として偉大な働き、主の御用のために用いてください。

わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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