【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年85                                                   

誤解を解く奉仕 

使徒言行録21章17-26節

高橋淑郎牧師

 

 

 

誤解に基づいた噂は晴らせばよいのですが、厄介なことに、噂というもののほとんどは根も葉もないものと分かっていても、野火のようにただ無責任に、どこまでも広がっていくのです。火元はどこなのか、誰が言い出したことなのか分からないのに、誹謗中傷の声だけはどこからともなく聞こえてくるのです。それを確かめようとしても、「いや、わたしがそう言っているのではありません。ただそういう噂を耳にしただけです。」と逃げてしまうのです。全くお手上げです。しかしお手上げだ、で済ませるわけにもいきません。ことは明日のキリスト教会が立つか倒れるか、わたしという一人の人間の存在の意味をさえ問われているという、聖書信仰の根幹にかかわることです。何としても解決しなければなりません。

キリスト者であっても、自分のしていることがストレートに受け入れられない場合があります。誤解され、非難され、一層深刻になると、その群れからはじき出されることさえあります。そのような時、わたし達はつい浮き足立って、誤解を解くためにいろいろな手段を講じますが、ますます誤解が誤解を生み、いっそう窮地に追いやられることになりかねません。これは、こと教会の中のことに限りません。むしろ一般社会の中にこそ起こり得ることです。

しかし今日の聖書箇所でパウロに助言した長老達の信仰から来る知恵と、それを素直に受け入れて従ったパウロの従順に学びましょう。長老達の助言は主イエスの足跡を思い起こさせるものです。福音書を読むと、主イエスほど多くの人から誤解された方は他にいないのではないでしょうか。

わたし達は人々の誤解や中傷を恐れることはありません。このことはパウロ自身が書いた手紙の中で言っている通りです。

「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を受けるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」 (コリント6:8)

誤解を解く最も有効な手段は、新しい方法を模索することではありません。今までしてきたとおりのことを貫くことです。主なる神を信頼し、祈りをもって。

 

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【主日礼拝メッセージ                                                                    2007年85

誤解を解く奉仕

使徒言行録21章17-26節

高橋淑郎牧師

 

 

使徒パウロはついに懐かしの地、エルサレムの都に帰ってきました。第三回伝道旅行のためにエルサレムを出発した日から数えても5年ぶりです。兄弟たちの歓迎を受け、翌日には早速教会の指導者であるヤコブを表敬訪問しました。ヤコブという名の人は聖書の中に沢山いますが、主イエスの12弟子の一人、使徒ヤコブではありません。この人は既にヘロデ王の手にかかって殉教しています(12:1-2)。イエスの母マリアとヨセフの間に生まれた最初の子で、主が十字架に死んで復活された後に弟子となった人です。新約聖書の「ヤコブの手紙」は彼の手によるものだと言われています。

このヤコブのもとには長老たちも同席していましたから、パウロはこの5年間の異邦人伝道を詳しく報告しました。長老たちはこの報告を聴いて、大いに喜び、神に讃美をささげました。これまで時折長老たちの耳に入ってきた噂の中には、パウロを誹謗、中傷する内容のものが多く含まれていました。例を挙げれば、「『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えている」(21節)というものでしたが、今パウロの報告を直接聞いてみると、そのような噂はでたらめで、全くの誤解であることが分かりました。パウロが伝道旅行で語ったこと、してきたことの全ては、既にエルサレム教会会議(総会。15:1-21)で承認され、決議されたはずでした。すなわち人が救われるのは、律法の行いとしての割礼によるのでなく、イエスを神の子キリストと信じる信仰こそ大切であるということが認められたはずなのです。

今日でもわたし達がしっかり身につけて置かなければならない一つの大事なルールがあります。それは、一旦会議で可決・承認されたことを、会議以外の場で覆すようなことを言ってもしてもなりません。「わたしはあの決議に終始反対だった。なのに、数の力で負けてしまった。だから、わたしはあの決議には従えない。」などと言ってはならないということです。また、ある決定がなされた会議の後に教会員になった人が、「わたしはその時総会にいなかったのだから、従う義務がない。」などと言ってもなりません。それは、「わたしは、交差点で赤信号になったら止まれという規則ができた後で生まれてきたのだから、そんな規則には従えない。」というのと同じです。

ところが、エルサレム教会の中には、総会決議に従えない人々がいました。もしかしたら、「内心は反対だったけれど、何となく反対しにくい雰囲気だったので、賛成の挙手をしただけだ。」という人もいたのでしょうか。或いは、あの総会決議の後に救われたユダヤ人キリスト者で、まだファリサイ派的律法主義から自由になりきれていない信者が、「そんな決議には賛成できない」と言っていたのでしょうか。いずれにしても、これまでの律法解釈と伝統にしがみついている人たちが、正しい聖書信仰に立とうとしないで、パウロの教えや牧会姿勢を誤解して流している噂であったのでしょう。

誤解は晴らせば良いのですが、厄介なことに、噂というもののほとんどは根も葉もないものと分かっていても、野火のようにただ無責任に、どこまでも広がっていくのです。火元はどこなのか、誰が言い出したことなのか分からないのに、誹謗中傷の声だけはどこからともなく聞こえてくるのです。それを確かめようとしても、「いや、わたしがそう言っているのではありません。ただそういう噂を耳にしただけです。」と逃げてしまうのです。全くお手上げです。しかしお手上げだ、で済ませるわけにもいきません。ことは明日のキリスト教会が立つか倒れるか、わたしという一人の人間の存在の意味をさえ問われているという、聖書信仰の根幹にかかわることだからです。何としても解決しなければなりません。

かといって、誤解している人々を見つけ出して、その一人ひとりに弁解して回ったところで、ことはますますおかしな方向に行ってしまうかも知れません。そこで、長老たちは噂の根元を絶つ手段として、パウロに一つの打開策を提案します。人々の誤解を解くには、パウロ自身が、これまで通りの奉仕を実際にエルサレムに住むキリスト者の目の前で示すのが一番の早道で、確実です。そう助言した上で、長老達は、「異邦人信者には(エルサレム教会決議の通り)、偶像に献げた肉と、血と、染め殺した動物の肉とを口にしないように、またみだらな行いを避けるようにという決定を手紙にしたためて書き送っておきましょう。」とパウロを安心させました。ここにはさすが長老と呼ばれる人々は、しっかりとしたキリスト信仰に立っていると尊敬できます。この提案を繰り返し読んでみて下さい。なんと知恵深い配慮の行き届いた言葉でしょうか。ここには誤解し、悪い噂を流している人たちを攻撃している言葉がどこにも見られません。誰をも傷つけることのない方法で解決の道を示唆しているのです。更に、異邦人に当てて書いておこうという文面を見ても、かつてエルサレム教会懐疑で決定した事項の確認の域を出ないように気を配っています。異邦人に対して割礼を要求する文言などどこにも見られません。

長老たちはパウロのために、「今、エルサレム教会の中に誓願を立てた人が4人いるので、彼らを神殿に連れて行って、彼らと一緒に、祭司の所に行って身を清めてもらい、あなたの費用で彼らの頭を剃ってもらうようにしてあげなさい。」と提案しました。この時4人は、頭を剃るということから、多分「ナジル人の誓願」を立てていたのでしょう(民数記6:1-21)。そもそも「ナジル」とは、「聖別された者」という意味があります。イスラエル人の中で、特別な宗教儀式を守って献身し、主なるヤハウェに対する信仰の純化を目指して立てる誓いです。その誓願期間中には三つの規定が定められていました。

1)ぶどう酒と濃い酒を断ち、更にぶどうの実からできた食べ物、飲み物の一切を口にしない。

2)満願の日まで頭髪は伸ばしたままにしておく。

3)誓願期間中は、死人のからだに触れてはならない。たとえ身内の者に対しても例外ではない。

 

4人のナジル人が満願になったので、彼らのために主に奉仕をすれば、パウロはやはりモーセの律法に忠実な人であったと、誰の目にも明らかになるというのです。「永遠の命にかかわることのない限り、目上の人に従いなさい」という諺どおり、パウロは長老たちのこの勧めをもっともなことと受け入れて、素直に従いました。

 

主イエスに仕える者であっても、その奉仕、愛の行為がストレートに受け入れられない場合があります。受け入れられないばかりか、誤解され、非難され、共同体からはじき出されることさえあります。そのような時、わたし達はつい浮き足立って、誤解を解くためにいろいろな手段を講じますが、ますます誤解が誤解を生み、いっそう窮地に追いやられることになりかねません。これは、こと教会の中のことに限りません。むしろ一般社会の中でも起こり得ることです。

しかし、この聖書箇所でパウロに助言した長老たちの信仰から来る知恵と、それを素直に受け入れて従ったパウロの従順に学びましょう。長老たちの助言は主イエスの足跡を思い起こさせるものです。福音書を読むと、主イエスほど多くの人から誤解の的となった方は他にいないでしょう。安息日の本当の守り方を教えても、それは伝統に即さないから律法違反だと決め付けられ、神殿のあるべき姿を示そうとすると、かえって反感を買う結果になったり、人々に愛の手を伸べると、人々はその手に釘を打ち込み、十字架にはりつけてしまいました。この外一々具体例を挙げると時間が足りないほどです。しかし、主はその十字架の上にあって、御自分に託された神の使命を立派に果たし、わたし達のために罪の贖いを成し遂げてくださいました。

十字架と復活において真理を貫き通された主イエスに倣い、主が歩まれたこの道を歩み通した使徒パウロの姿勢に学び、それを実践することで、わたし達もまた人々の誤解や中傷という得体の知れない恐怖から解放されるのです。パウロ自身が次のように言っている通りです。

「真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を受けるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」(コリント6:8)

誤解を解く最も有効な手段は、新しい方法を模索することではなく、今までしてきたとおりの奉仕を通して、真理の道を貫くことです。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたの御名を崇(あが)め、讃美します。

使徒パウロは一生懸命真面目に主の御用を果たすために働きとおしました。しかし、それは必ずしも全ての人を満足させることにはならず、根も葉もない噂を流して彼の働きを意味のないものとしてしまおうとする人々がいました。しかし、主にあって懸命な長老達は、パウロに今までしてきたことを今一度人々に示すことこそ、解決の道と助言しました。パウロもまた素直な心で受け入れて神殿に出かけました。

今日、わたしたちの身の回りでも、誠心誠意人に尽くしてもかえって誤解され、誹謗中傷の的にされることがあります。しかし、十字架と復活の主を見上げるとき、あなたにこそ唯一の解決の道があることを知りました。私たちは好評を博しても悪評を受けても、ただ主であるあなたの喜びとなる奉仕をさせて下さい。

私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをおささげします。アーメン。


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