【主日礼拝メッセージ】                                   2007年8月12日

 

すべてのこと相働きて

使徒言行録21章17-26節

大坪節子姉

 

 

あと3日で今年も終戦記念日を迎えます。62年前、台湾の台北郊外の疎開地亀山(きざん)で終戦詔勅を聞いたことが、昨日のことのように思い出されます。当時台湾は日本最南端の領土でした。昭和18年山本五十六元帥の戦死やサイパン島玉砕以後は、本土と同じく度々空襲を受け、殊に昭和19年の秋以降は神風特別攻撃隊の出撃も頻繁となり、当時台北第一高等女学校4年だった私は、様々な動員に参加させられていました。

 私は昭和3年、北九州の門司で生まれました。会社員の父の転勤に伴われて、昭和9年に大連へ、昭和13年に台湾の台北に移り、敗戦の翌年、昭和21年3月、日本へ引き揚げて来ました。父は戦時中の昭和19年春、台北からインドネシアのビンタン島に単身赴任したのですが、母と私と妹二人の家族は、内地に帰るにも内台航路の高千穂丸・富士丸がすでに撃沈されていて船がなく、そのまま台北にどどまって父の留守を守ることになったのです。

 教会にはクリスチャンの両親に連れられて、幼い時から父の勤務地の教会に通い、台北では昭和町の教会に通っていました。

 小学校5年生のとき、或出来事がきっかけで、私の罪深さを教えられ、それが契機となって自分から教会へ通うようになりました。

 空襲が激しくなっても日曜日には40分の道を歩いて、教会へ急いだことを思い出します。当時教会は私のオアシスでした。

 戦争の悲惨な様子は、色々と語られていますので、私は今も心に強く残る友人のことをお話したいと思います。

 昭和19年4月、私の通っていた台北第一高等女学校に、沖縄の県立第一高等女学校のAさんが転校してきました。落ちついた静かな人で、新古今調の美しい変体仮名をすらすら書くのを私はびっくりして見ていました。同じ班だったので看護実習(3週間)・飛行場作業など、一緒に参加して、休み時間には瞳を輝かせながら沖縄の美しい空や海を語る彼女の話に引き入れられました。そして昭和20年3月15日、私たちは揃って台北第一高等女学校を卒業したのです。

 熾烈な沖縄戦争が始まったのは、私たちの卒業直後の4月1日でした。悲劇としか言いようのないこの戦いは6月23日まで続くのですが、台北にいた私たちには沖縄でどんな悲惨な死闘が繰りひろげられているか知るよしもなく、日々の空襲に怯えながら敗色濃厚な戦争の推移に心痛するばかりでした。

 8月15日の敗戦から引き揚げまでの落ち着かない日々、Aさんのことも案じながら、東門町の彼女の寄宿先を訪ねることができませんでした。

 戦後同窓生の名簿も追々整備され、Aさんと電話連絡がついたのは、昭和48年頃のことでした。

 Aさんは相変わらず静かな声で、 アメリカ軍政下の沖縄からお茶の水女子大学に留学し、その時一緒に東京の大学に留学した御主人と大学卒業後結婚し、沖縄には帰らず、東京で家庭を持ったと話してくれました。

 その時から私たちは時々電話で、お互いの家族のことなどお喋りしながら、 再会を楽しみにしていたのですがノノ戦後50年の節目の年、平成7年8月25日、彼女はクモ膜下出血のため突然召されてしまったのです。

 私たちは9月のはじめに会う約束をしていました。

『私の骨は沖縄の海にまいてね????と彼女はいつも言っていましたが、そうもいかないので藤沢の墓地に納めることにします』と、御主人は言われました。

 沖縄県立第一高女生と女子師範生で結成された『ひめゆり部隊』が沖縄戦争でどのような働きをし、最期を迎えたか  ????御存知の方もいらっしゃると思いますが、そこにいなかった為に、行動を共にできず生き残ってしまったAさんはどんなにつらかったことでしょう。わたしにはその思いがひしひしと伝わってきて何ともいえない気持になりました。

 それから4年後の平成11年、沖縄でひらかれた一高女の同窓会に出席した私は、すぐ『ひめゆりの塔』を訪れ、鎮魂の祈りとともに、戦争の哀しみにうちのめされる思いを味わいました。戦争とは死んだ者にも生き残った者にも耐え難い苦しみを与えるものと痛感しました。

 私は、家族と共に昭和21年3月、突然の引き揚げ命令で持ち物は夏冬三着のみという軽装ですべてを置いて台北を後に致しました。

 引き揚げの直前の昭和21年1月20日は私は毎週通っていた台北昭和町教会の中森幾之進牧師に洗礼を授けていただきました。17歳でした。その時、牧師が言われた言葉『常識にとらわれず、天軌道を歩いてください。無軌道とはちがう天軌道をね????』は、私の一生忘れられない言葉になりました。

 そして今、天軌道とは、詩編23篇の『ノノ主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる』その道なのだと感銘を深くしています。

 あれから62年の歳月が過ぎ去りました。昭和21年上京当時は一面焼け野原だった東京もビルが建ち並び、当時の面影を残すものはありません。甲子園で力闘する球児たちの逞しい姿を見るにつけ、平和のありがたさを痛感します。

 洗礼によって新しく生まれ変わった者として、この60年をふり返るとき、慙愧の思いとそれに倍する感謝の思いで満たされます。本当に色々なことがありました。若気の至りで感情に流されそうになった時、まちなさい????と引き戻してくださったのは主の『みことば』でした。

 結婚して与えられた3人の子どもたちは独立し、父・母・夫を天に送り、今は1人残されましたが、本当に主はすべてを最善に導いてくださいました。試練にあう度に、砕き励まし強め、逃れる道も備えてくださいました。年をとるごとに愈々罪深く弱い私にとって何というお恵みでしょう。

 今も世界中のどこかで戦争があり、多くの尊い命が失われています。日本も憲法九条の改憲言々が叫ばれています。今こそ戦争のない世界を本当に真剣に祈り求める時です。それには国の司政者も戦争をさける為に、お互いを7の70倍、いや無限に許し合うことを根底にして話し合うことが大切で、それには主に在る本当の勇気こそが必要です。

 主が十字架上で、『父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているか知らないのです』と言われたことを心の底から味わうべきです。『あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。』 私がくじけそうになった時、いつも励ましてくださったみことばです。

 みなさまの上に主の平安と祝福が豊かにございますように。つたない話をおきき下さりありがとうございました。


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