【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年92                                                   

無知は罪 

使徒言行録22章22−30節

高橋淑郎牧師


 
 パウロの話を聞いていた群衆が突然、「こんな男は、地上からのぞいてしまえ。生かしてはおけない。」と、声を張り上げました。ローマ兵たちは、この騒ぎに驚きましたが、ここまで群衆が怒りに燃えるからにはパウロの方に非があると判断したのでしょう。その理由を知るために、彼を鞭打ちという拷問にかけようとしましたが、パウロはローマの市民権を持つ者であると主張して拷問を免れました。しかし、それはただ肉体的苦痛から逃れたいからではありません。
 ユダヤ人は、聖書に約束されたメシア(キリスト)を待ち望んでいましたが、実際にはキリスト教会を迫害することで、メシアである神を拒んでいることに、彼らは気がついていなかったのです。かつてのパウロ自身がそうでした(Tテモテ1:13,15)。
パウロに鞭を加えようとしたローマ人にいたっては、もとより聖書も聖書が証言する神も知りません。だから、神が遣わされた伝道者よりも、その伝道者を暴力的に訴えるユダヤ人の罪に、結局は加担してしまいました。このように彼らは、知らず知らずの内に聖書が禁じる罪を犯しているのです。「無知は罪」です。
 ユダヤ人は、神も神の言葉である聖書も知らず、信じない人々を国籍の違いに関係なく、「異邦人」と呼びましたが、この点ではわたし達も間違いなく異邦人の一人です。教会に来て、聖書に書かれている意味を学ぶまで、わたしたちもあのローマ人と同じように、いろいろな場面で聖書が禁じる罪に走り、また罪を犯す人々に加担するような生活をしていました。パウロがローマ市民権を行使したのは、このような「異邦人の救いのためにあなたを遣わす」と言われた主イエスのご命令に忠実でありたいと願うからです。
皆さんはいかがですか。聖書を正しく読めていますか。都合の良い部分だけをつまみ食いするような読み方、解釈の仕方は、神の御心を本当に知っている人のすることではありません。聖書は言います。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105)と。あなたの人生を正しく導いてくれる聖書に従ってイエス・キリストをあなたの心の中心に迎なさい。そうすれば的外れな人生、誤った生活からあなたを守って下さいます。

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【主日礼拝メッセージ    

                         

無知は罪 

使徒言行録22章22−30節

高橋淑郎牧師

 お医者さんにとって一番扱いにくい患者さんは、自分のからだは誰よりも自分が一番良く知っている」と頑張る人だと聞いたことがあります。
今日の聖書箇所に登場する使徒パウロも、ある教会に宛てて書き送った手紙の中で、「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」(Tコリント8:2)と言っています。また、こうも言っています。「なぜなら、神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:21−23)
以上のように、わたしたち人間は、この世のことについて、また神について、本当は何も分かっていないのに、全てが分かったように思い上がっています。「無知は罪」、これが今朝私たちに与えられたメッセージの中心です。心してパウロを通して語られる神に聴きましょう。

 それまで静かにパウロの話を聞いていた群衆が突然、「こんな男は、地上からのぞいてしまえ。生かしてはおけない。」と、声を張り上げました。いったい何が彼らを再び興奮させてしまったのでしょうか。@パウロがユダヤ教を裏切って自分たちが否定しているキリストの弟子になってしまったこと。A自分たちが十字架にかけて死なせたはずのイエスが甦えったと信じていること。B自分たちが捨てたイエスによって救われたと信じていること。Cそしてこともあろうに、異邦人伝道の使命を受けたというのを聞いたためです。
ユダヤ人はとても誇り高い民族です。彼らはこの地球上で自分たちこそ神に選ばれた特別な民族(=イスラエル)と信じていました。今は地中海世界を支配しているこのローマ人もやがて終りの日、神に裁かれて滅びる運命にあると確信し、心の中では彼らを軽蔑していました。
ところが、このパウロはわざわざ異邦人の世界に足を踏み入れて神の道を説くようにと、イエスに命じられたというのを聞くに及んで、彼らの怒りは頂点に達したのです。上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らす仕種は、通常悔恨の情を意味する場合もありますが、今の場合は汚れた罪びとに対する抗議であり、憎悪を意味します(Uサムエル16:13、ヨブ記2:12、黙示録18:19)。


 パウロに発言を許したものの、ヘブル語を理解できない千人隊長をはじめローマ兵たちは、再び起こった騒ぎの意味が分からず、ただ驚き、慌てるばかりです。しかし、ここまで群衆が怒りに燃えるからにはパウロの方に非があると判断したのでしょう。その理由を知る早道として、パウロを拷問にかけて自白させよ、と百人隊長に命じました。ローマ兵が用いる鞭は犯罪者の身分によって異なります。自由人の場合は樺の木で作ったものを用いましたが(使徒言行録16:35,38、Tコリント4:21、Uコリント11:25)、奴隷や非ローマ人の場合は棒の先端に数本の皮ひもを結び付け、その一本一本の皮ひもにたくさんの金属片や動物の骨のかけらをくくりつけておきます。拷問は先ず服を脱がせ、両手両足をX字型に括り付け、背中に打ち付けます。それは情け容赦のないものです。主イエスもピラトの裁判を受けたとき、ローマ兵からこの鞭でしたたか打ち付けられたのです(ヨハネ19:1)。かつて上映された「パッション」という映画ではイエス・キリストはX字型に組んだ木に縛り付けられ、ひざが地面にずり落ちるまで打たれましたが、パウロの場合、この「縛る」という単語は、地面にうつ伏せの状態で縛られていたと想像させるものだそうです。どちらが効果的なのか、打たれてみないと分かりませんが、少なくとも鞭打つ側は水平に打つよりも、地面に叩き付けるように打つ方が幾分楽なので、この方法を選んだのかもしれません。自白を強要するための鞭打ちですが、口を割る前に息絶えることもありますが、それはそれで仕方がないということで、誰も責任を問われることはないのです。
しかし、パウロは黙って縛り付けられたままではいません。そばにいた百人隊長に、「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってよいのですか。」と抗議しました。千人隊長は多額の金で市民権を得ましたが、パウロは生まれながらのローマ市民だというのです。恐ろしくなり、兵士たちも直ちに手を引きました。それにしても、パウロはどうして今になってローマ市民権という切り札を用いたのでしょうか。


 今朝、わたし達に与えられたメッセージの中心はこれです。パウロの目にはユダヤ人もローマ人も、等しく「無知ゆえの罪人」と映っています。ユダヤ人は聖書の神に忠実なつもりでした。メシア(キリスト、救い主)を待ち望んでいました。しかし実際にはキリスト教会を迫害することで、メシアである神を拒んでいることに、彼らは気がついていなかったのです。かつてのパウロ自身がそうでした。
「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。・・・『キリスト・イエスは、罪びとを救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪びとの中で最たる者です。」(Tテモテ1:13,15)と。


 パウロに鞭を加えようとしたローマ人にいたっては、もとより聖書も聖書が証言する神も知りません。だから、神が遣わされた伝道者よりも、その伝道者を暴力的に訴えるユダヤ人の罪に、結局は加担してしまいました。このように彼らは、知らず知らずの内に聖書が禁じる罪を犯しているのです。「無知は罪」です。
ユダヤ人は、神も神の言葉である聖書も知らず、信じない人々を、国籍の違いに関係なく、十把一絡げに「異邦人」と呼びましたが、この点ではわたし達も間違いなく異邦人の一人です。教会に来て、聖書に書かれている意味を学ぶまで、わたしたちもあのローマ人と同じように、いろいろな場面で聖書が禁じる罪に走り、また罪を犯す人々に加担するような生活をしていました。
ところが、聖書を読むと、主イエス・キリストは、その無知ゆえに犯してしまう罪からわたしたちを清めて救うために、罪びとのわたしたちの身代わりとなって十字架に死んで下さいました。しかも、その十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈って下さったのです。
パウロは自分がローマの市民権を持つ者であると主張することで拷問を免れました。しかし、それはただ肉体的苦痛から逃れたいという理由のためではありませんでした。罪を罪とも知らずに自分を殺そうとしているユダヤ人に、またその罪に加担する異邦人にも、いや、もっと多くの人たちに、何とかして真の神を知らせたかったからです。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わす」と言われた主イエスのご命令どおり、何とかしてギリシャ人、ローマ人をはじめ、すべての異邦人にイエス・キリストの福音を伝えて、その幾人かでも救われてほしいと願うからです。

 今、ベンチでこのメッセージに耳を傾けておられる皆さんにお尋ねします。あなたは聖書を正しく読めていますか。自分にとって都合の良い部分だけをつまみ食いするような読み方、解釈の仕方をしていませんか。それは、神の御心を本当に知っている人のすることではありません。また、まだイエス・キリストを信じるに至っていない人、バプテスマを受ける決心ができていない人にお尋ねします。あなたがそのように躊躇しているのはなぜですか。あなたの心の中心にあなた自身が居座り続けているからではないですか。聖書は言います。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 私の歩みを照らす灯。」(詩119:105)と。あなたの人生を正しく導いてくれるのは聖書以外にありません。今こそイエス・キリストをあなたの心の中心にお迎えしなさい。そうすれば的外れな人生、誤った生活からあなたを守ってくださいます。 祈りましょう。

天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
 パウロはユダヤ人に訴えられ、ローマ人に拷問を加えられそうになりました。ユダヤ人もローマ人もパウロが伝えようとしている福音の真理よりも、自分流の聖書理解にこだわるユダヤ人、善悪の基準を自分の常識の枠の中に閉じ込めて、何が善で、何が神の御旨にかなったものかを全く理解していないローマ人の罪の為でした。神を知らず、聖書を理解できない無知という罪が犯させる悪です。


 しかし、パウロはユダヤ人にもローマ人にも雨を降らせ、太陽を照らしてくださる神の愛を伝え、全ての人がその罪から清められるために、救われるために、十字架に上げられ、死んで甦られたイエス・キリストの福音を宣べ伝える為に生命をかけて伝道しました。
わたし達も今日まであなたのそのような深い御心が分からずにあなたと隣人に罪を重ねてまいりました。今、あなたの前にその罪を悔改めます。どうか、御前にいるわたしたちを憐れみ、あなたを深く悟るものとしてください。
私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 


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