【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年99                                                   

神と和解せよ 

コリントの信徒への手紙二5章20−21節

高橋淑郎牧師

 

 パウロは、コリントの教会とその周辺の町の人々に言います。「神と和解させていただきなさい。」と。
「和解」というのは、本来被害者が加害者を赦す時に使う言葉です。ただの「仲直り」ではなく、被害者側にこそ痛みを伴うものだということを忘れてはなりません。わたし達は神に対して赦しを求め、和解して頂かなければならない罪びとです。
 あなたは言うでしょう。「わたしは神に対して罪を犯した覚えはない。」と。本当にそう言い切れますか。あなたは今まで一度も嘘をついたことはありませんか。これまで一度も行いや言葉で、また心の中で人を傷つけたことはありませんか。あんな人はいなくなればよいのにと、心の中で殺人を犯したことはありませんか。あなたは人のものを盗んだことはないですか。例えば意識的に約束をすっぽかすことは信頼を盗んだことになります。理由もなく大幅に遅刻した人は、そこで待っている全ての人の時間を盗んだに等しいのです。人をいじめたこと、差別したことはないですか。もし、国や地方政府が過去に犯した民族の罪を否定したり、隠蔽することがあったとき、あるいは親しい人の間違いに気付いたとき、沈黙しているとしたら、あなたはその罪や過ちに加担したことになるということをご存知でしたか。このように、わたし達は誰ひとり、神の前に潔白だと言い切ることはできないのです。
 「神と和解させていただきなさい。」と聖書は言います。先ほど申し上げましたように、赦されるわたしたちよりも、赦す側の神の御心はもっと傷ついているのです。イエス・キリストはわたしたち罪びとのために、わたしたちに代わって十字架の上で打たれ、苦しめられ、そして死んで下さったのです。これを神による罪の贖いと言います。赦されるわたしよりも、赦す側の神の苦しみはいかばかりでしょう。このことを心に留めて、十字架の上に死んで甦られたイエス・キリストをあなたの救い主と信じる人は救われます。今こそ決心すべきときです。あなたの上に神の祝福を祈ります。

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神と和解せよ 

コリントの信徒への手紙二5章20−21節

高橋淑郎牧師

 

 今朝、聖書というものを初めて手にした方のために、聖書について少し説明させて下さい。聖書は、旧約聖書と新約聖書の二つに分かれています。更に旧約聖書と一口に言いましても、実際は39冊、同じように新約聖書は27冊、合わせて66冊もあります。
今、皆さんとご一緒にお読みしましたコリントの信徒への手紙二は新約聖書の初めから数えて8冊目のものです。この聖書の書名は、頁の余白に「コリントの信徒への手紙二」とあるように、手紙です。誰から誰に宛てられた手紙かと言いますと、パウロという伝道者から、「コリント」という町にある教会への手紙で、二つ目に書いたものですから、「第二」と呼んでいるわけです。

 聖書は言います。「神と和解させて頂きなさい。」と。皆さんも「和解」という言葉はよく耳にされると思います。例えば企業がもたらした公害汚染に苦しむ地域住民が、国または自治体と企業を相手に裁判を起こします。しかし、なかなか解決の見通しが立たないとき、裁判所は被災者救済のため、双方に「和解案」を提示するというようなことをします。ここで、わたしたちが正しく理解しておかなければならないのは、裁判所はあくまで被害者の側に立ち、被害者に代わって加害者側に、「この程度のことをすれば、原告被害者の赦しを得られるよ。」と提案しているのだということです。
このように「和解」というのは、本来被害者が加害者を赦す時に使う言葉です。ただの「仲直り」ではありません。この手紙の差出人はパウロという人ですが、彼は、「キリストに代わってお願いします。」と前置きして、神と和解する必要をこの手紙を読む全ての人々に求めています。この手紙が新約聖書の一冊に数えられ、今日まで伝えられてきたことの意味は大きいです。実に現在この手紙を読むわたし達もまた神に対して赦しを求め、和解して頂かなければならない罪びとであるということです。イヤでしょうけれども、今あなたがこの聖書を手にし、この記事を読まれたからには、もはや逃れようのない神への犯罪者の一人であることに思いを馳せなければならないのです。
あなたは言うでしょう。「キリスト教はわたしにとって無縁の宗教だ。」と。この天と地とその中に住む一切のものを造られた創造主である神を認めない、ここに罪の源があります。またあなたは言うでしょう。「わたしは神に対して罪を犯した覚えはない。」と。本当にそう言い切れるでしょうか。あなたは今まで一度も嘘をついたことはありませんか。もし、あなたが言われることを信じて、本当に一度も嘘をついたことはないとしても、あなたは今日、生まれて初めて嘘をついたことになります。「わたしは神の前に罪を犯したことがない。」という言葉が、もう嘘をついていることになるからです。あなたが認めるから神が存在するのではありません。神は永遠の初めからおられるのです。あなたはこれまで一度も行いで、言葉で、また心の中で人を傷つけたことはありませんか。あんな人はいなくなってくれたらよいのにとか、死んでくれたら良いのにと思ったことはありませんか。それは心の中で既に殺人の罪を犯しているのです。あなたはこれまで、異性に対して卑しい思いを抱いたことはありませんか。もしそうなら、あなたは心の内に既に姦淫の罪を犯しているのです。あなたは人のものを盗んだことはないですか。例えば意識的に約束をすっぽかすことは信頼を盗んだことになります。理由もなく大幅に約束の時間を遅刻することは、そこで待っている全ての人の時間を盗んだに等しいのです。あなたは人をいじめたことはないですか。差別したことはないですか。またもし、国や地方政府が過去に犯した民族の罪を否定したり、隠蔽することがあったとき、あるいは親しい人の間違いに気付いていながら、沈黙しているとしたら、あなたはその罪や過ちに加担したことになるということをご存知でしたか。このように、わたしたちは誰ひとり、神の前に潔白だと言い切ることはできないのです。聖書は私たちが少しはましな人間になるように書かれていると、期待しながら読む人はきっと失望するでしょう。聖書は、わたしたち人間が神のみ前にいかに罪深い者であるかを気付かせようとして書かれたものです。

 わたしがまだ幼かったある日、わたしは愚かにもお菓子屋さんの店先に並ぶ飴玉を一つ盗もうとしました。ところが悪いことはできません。そのお店のご主人の背中には目がついていました。わたしの悪事はすぐに見つかり、母親を呼びに行かせられました。母親は、わたしに代わってこっぴどく叱られました。盗んだのはわたしなのに、悪事を犯したのは私なのに、母親は私に変わって何度も頭を下げ、赦しを求めてくれました。小さいころからキリスト教会の門をくぐり、日曜学校で聖書の話を聴いて、神のことを学んでいたわたしなのに、あの時神にも人にもしてはならない過ちを犯してしまいました。更に告白しますが、わたしはあの時もっと愚かな人間に成り下がっていました。店のご主人に見つかり、首根っこを押さえつけられた時、悪いことをしたという反省よりも、「しまった。運が悪かった。どうしてもっとうまく見つからないようにできなかったのか。」と、そんなことばかり考えていたのです。けれども、何も悪いことをしていない母親が、自分の目の前で、自分に代わって叱られ、詫びてくれているのを見た時、わたしはその時初めて自分が何と愚かなことをしてしまったのかと罪意識が芽生えました。「あなたは盗んではならない。」という聖書の言葉がわたしの心を突き刺しました。そしてイエス・キリストの十字架の意味を悟ることができたのです。わたしは生まれてはじめて、「神さま、ごめんなさい。」と心から謝りました。もちろんお菓子やのおじさんにも。
 聖書が言う「神と和解させて頂きなさい。」とは、「罪を認めて、神の赦しを求めなさい。」という意味です。このように、神と人に対する謝罪、罪の赦しを求めることを、悔い改めと言います。人が自分の内にある罪を認めて神に立ち返るなら、神はその人を救い、受け入れて下さいます。神の側では既にその準備ができているのです。なぜなら、神は私たちの罪を既に十字架に釘付けて、罪も過ちも全て塗り消して下さったのです。神の独り子イエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架に死なれたことによって、救いは完成しているのです。このことを心に留めて、十字架の上に死んで甦られたイエス・キリストをあなたの救い主と、今信じる人は救われます。この決心のできた人は、今でも良いです。後からでも結構です。わたしのもとに来てください。あなたのために祝福を祈ります。

 天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
 あなたはこの世界に聖書という素晴しいものを与えて下さいました。わたしたちは聖書によって、少しはましな人間になれるかもと期待を込めて読みましたが、事実はその反対でした。聖書はわたしたちの罪が聖い神のみ前にいかに大きくて深刻なものであるかを示すものでした。しかし、また聖書は、わたしたちがましな人間になることではなく、全く新しく造り変えていただける道を発見させてくれました。イエス・キリストに出会わせてくれました。イエス・キリストによって、わたしたちの罪は赦され、救われることを知りました。わたしたちは今こそ自分の罪を認めます。悔改めます。あなたこそ真の神であり、救い主であることを信じます。
私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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