【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年1014

良心に恥じない人」 

使徒言行録25章1-12節

高橋淑郎牧師
主イエスはかつてパウロに、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)と語られました。これは、もはや約束というよりも、絶対命令なのです。パウロはこの命令に忠実でありたいとの祈りに導かれていましたから、総督に対して、「わたしは皇帝に上訴します。」とはっきりと言うことができました。また、彼はかつてある教会に宛てた手紙の中でこう言いました。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)と。パウロは主イエスの名のためにはいつでも命を献げる用意ができていました。しかし、前にもお伝えしましたが、彼は決して死に急ぎする人ではありません。ましてや命を粗末にする人ではありません。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この生命すら決して惜しいとは思いません。」(20:24)と言っているように、自分の人生を決めるのは自分ではなく、神にあると肝に銘じている人でした。
 今日神があなたに語りかけておられるメッセージがあります。それは、良心に従って神の前で生きている人を神は決して裏切らないという信仰、神が約束してくださったことは必ず実現するという信仰の尊さに学ぶことです。あなたの人生はあなたのものではありません。神から賜ったものだということを忘れないで下さい。良心に従って生きるということは、神から賜った使命に生きるということです。昨今人の命が余りにも軽んじられています。しかし、あなたは決して死に急ぎしないでください。命を粗末にしないでください。神から賜った人生の尊い使命、それが何であるかということに気付きが与えられるまで、あなたは聖書を読み続けてください。祈り続けてください。そして示されたら、その使命を果たすことに全力を注いでください。

福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセージ】                                   2007年1014

良心に恥じない人」 

使徒言行録25章1-12節

高橋淑郎牧師

 総督フェリクスは一方でユダヤ人の歓心を買うために、もう一方ではパウロから賄賂をもらいたさに、一日伸ばしに、都合二年間もパウロを留置したままにしていました。当時のキリスト教会の歴史について書かれているいくつかの書物によると、彼の生い立ちはもともと奴隷の身分でしたが、幸運にも兄と共に解放され、出世コースに乗ることに成功して、やがて総督の地位を得ました。ユダヤ州は当時ローマの直轄でしたから、その総督となれば、一国の王さま気取りです。彼は在任中その地位を利用して、余りにも残忍を極めたために、ついに紀元59年にネロ皇帝の命令で総督の任を解かれてローマに召還されてしまいました。後世の人がフェリクスを評して、「奴隷の精神で、王権を振るった」と言っているほどです。
フェリクスに代わって、その後任として着任したのがボルキウス・フェストゥスという人物です。カイサリアに着任してわずか四日目にはエルサレムへ出向き、ユダヤ当局の主だった人々からの接見を受けています。
 余談ですが、彼は非常にエネルギッシュに仕事をこなす任務に忠実な人で、余りに仕事熱心が過ぎたのが原因となったのでしょうか、赴任後二年にして、任地先のカイサリアで死去しています。


 話を戻しましょう。フェストゥスはエルサレムで厄介な荷を背負わされました。前任者の置き土産である使徒パウロの処置についてです。大祭司をはじめ、ユダヤ教当局者は、新任フェストゥスがユダヤの事情に疎いことにつけこんで、パウロをエルサレムに連れてきて、ここで裁判をしてほしいと願い出ました。本音はパウロ暗殺計画を成功させるためです。しかし、懸命な総督は、「カイサリアで裁判するから、あなたがたの中で有力な人がわたしと一緒に来て訴えるが良い。」と曰くありげな陳情を退けました。カイサリアに戻ってその翌日には、もうパウロを引き出して裁判を始めたと言いますから、本当に仕事熱心な人です。
 ユダヤ人たちはパウロの姿を見るなり、彼を取り囲んで重い罪状をあれこれ言い立てました。しかし、どれ一つとしてそれを立証するには至りません。次にパウロが発言する番です。ユダヤ人たちが訴えたあれこれの罪状の内容をまとめて、順番に反論しました。@わたしは先祖伝来の律法に違反してはいない。A神殿を汚すような言動を一切していない。Bローマの法律に照らしても何らやましいことをしてはいない、と弁明しました。その上で、フェストゥスの提案をも退けて皇帝に上訴すると言い切りました。つまりローマに行って、そこで法廷に立つ覚悟であると言うのです。この上告は、フェストゥスにとってやれやれ肩の荷を降ろせるものであり、ユダヤ人にとっては、もうこれ以上パウロに手出しできなくなった瞬間です。ここまでが聖書を記事のままに読んできた通りです。


 では、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神はこの箇所から何を語っておられるのでしょうか。私たちはこのところからどういうメッセージを聴き取るべきでしょうか。わたしは二つの点でメッセージを与えられましたから、それを皆さんとともに分かち合いたいと願っています。
先ず第一の点は、人の思惑に勝る聖霊の確かな導きをわたしたちは読み取っていかなくてはなりません。
コリントの信徒への手紙二13章8節に、「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」(口語訳聖書=「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある。」)と教えられていますように、前任総督のフェリクスも、後任のフェストゥスも、また大祭司をはじめユダヤ教の指導者たちも、皆鎖につながれていませんでした。どこへ行くのも何をするにも自由でした。しかし、彼らはパウロに対して何一つ思うようになりませんでした。これに比べてパウロはある程度の自由が与えられていたとは言え、鎖につながれ、終日監視下に置かれている獄中の囚人でした。しかし、全てはパウロの願うとおりに事が運んでいます。それは何故でしょう。真理に従う人と真理に逆らう人たちの違いにあるのです。


 パウロには一つの確信がありました。それは、エルサレムで大祭司の前に立たされた時、「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」(23:1)と言いましたが、ここカイサリアで総督フェストゥスの前に立たされた時にも、「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない。」と言っています。パウロはエルサレムからこのカイサリアに移送されて、早や二年の歳月が流れていました。この二年の間、パウロは何をしていたでしょうか。また獄舎にいるパウロを訪ねてきた同信のキリスト者たちは、この二年の間何をしていたのでしょうか。祈っていたに違いありません。確かに外目には彼らは無力です。何もできないように見えます。しかし、彼らには祈りという武器があったのです。この武器は誰をも傷つけるものではありませんが、真理に逆らう者は誰もこれに立ち向かうことは出来ないのです。聖霊は、この方を信じる者に必ず勝利を与えてくださることをこの聖書の箇所から学ぶことができます。


 愛する兄弟姉妹、あなたは聖霊を信じますか。聖霊の力の全能を信じますか。それならいつでも、どんなときでも先ず祈る必要のあることを忘れないで下さい。祈りは聞かれるという確信を失わないで下さい。そして、人目をはばかって自分を偽るのではなく、何事も聖き神から賜った良心に従って行動してください。
二つ目に示されたメッセージは何でしょうか。主イエスはパウロに、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)と語られました。これは、もはや約束というよりも、絶対命令なのです。パウロはこの命令に忠実でありたいとの祈りに導かれていましたから、総督に対して、「わたしは皇帝に上訴します。」とはっきりということができました。彼はかつてある教会に宛てた手紙の中でこう言いました。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)と。パウロは主イエスの名のためにはいつでも命を献げる用意ができていました。しかし、前にもお伝えしましたが、彼は決して死に急ぎする人ではありません。ましてや命を粗末にする人ではありません。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この生命すら決して惜しいとは思いません。」(20:24)と言っているように、自分の人生を決めるのは自分ではなく、神にあると肝に銘じている人でした。
 今日神があなたに語りかけておられるメッセージがあります。それは、良心に従って神の前で生きている人を神は決して裏切らないという信仰、神が約束してくださったことは必ず実現するという信仰の尊さに学ぶことです。あなたの人生はあなたのものではありません。神から賜ったものだということを忘れないで下さい。良心に従って生きるということは、神から賜った使命に生きるということです。昨今人の命が余りにも軽んじられています。しかし、あなたは決して死に急ぎしないでください。命を粗末にしないでください。神から賜った人生の尊い使命、それが何であるかということに気付きが与えられるまで、あなたは聖書を読み続けてください。祈り続けて下さい。そして示されたら、その使命を果たすことに全力を注いでください。  祈りましょう。


天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
 使徒パウロはいつでもどんな場所でも正しいことのためには勇気をもって発言し、また行動に移せる人であったと聖書は証言しています。わたしたちは人間を偶像化してはならないと分かっていますが、しかし、尊敬することは許されています。それにしても、彼の勇気ある言動はどこに由来しているのでしょうか。それは、「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」(23:1)という確信に基いていたからです。そしてその源には、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)とお命じになった主イエス・キリストに忠実であろうとした使命感であり、聖霊から賜った召命感が彼を支えていたからでした。
 わたし達はともすれば、自分の人生を自分でどうにでもできると軽く考えて、かえって粗末にしてきました。そしてとどのつまり、良心に恥じることも敢えてしてしまうのでした。しかし、今日の聖書箇所から、私たちはもっともっとあなたから賜った命、そしてこの命によって築き上げていくべき人生を後悔のないようにしなければならないことを教えられました。自分のためにではなく、あなたの栄光のためにこそ生きていくことを第一にしなければならないと示されました。どうぞ、これからの日々、聖霊ご自身がわたしたち一人びとりの歩みに光を照らしてくださいますよう、そして自己満足の生き方を由とするのでなく、あなたの喜びとなる生活を目指せますように、わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む