【主日礼拝メッセージ要約】                                   2007年1021

生きておられるイエス」 

使徒言行録25章13-27節

高橋淑郎牧師

 主イエスは、ご自身に従おうとする弟子たちに、「蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」(マタイ10:16)と言われました。この世に対しては油断なく聖霊による知恵で対抗し、神に対しては常に従順であることが求められています。その意味でパウロの生き様はわたしたちに、その賢さと素直さの見本を見ることができます。


 彼は不信仰なユダヤ人の手で捕えられ、何度となく生命の危険に曝されました。しかし、その都度、上から賜った知恵を用いて危機から脱し、それを好機に替えることができました。また同じカイサリアに幽閉されていても、賄賂欲しさに優柔不断な取り扱いをしていたフェリクスの時と違って、全てを几帳面にこなす実務型のフェストゥスが、ユダヤ人の関心を買いたさに再びエルサレムに移送すると断を下すなら、彼の命はないでしょう。或いはこのカイサリアで無罪放免されることはもっと危険なことです。何度も言うことですが、パウロはもとより自分ひとりの命を惜しむ人ではありません。ですが、もっと大きな使命が彼をして生き延びるための知恵を必要とさせるのです。ローマへ行くことが主のご命令であり、約束であったからです。しかし、パウロはその約束が果たされるために、或いはご命令なのだからと漫然と道が開かれるのを待っていたわけではありません。いかにすればローマに行く道が開かれるか、そのための知恵を祈り求めたに違いありません。祈りは聞かれました。ユダヤ人の訴えを逆手にとって、ローマ市民権を利用して皇帝に上告するという、真に奇抜なアイディアを思いついたのです。こうして死から生へのどんでん返しが成功しました。


 パウロは口先だけで、「イエスは復活された。」と証ししただけでなく、「皇帝への上告」を申し出るという手段を実行することで、主は確かに生きておられることを明らかにすることができました。彼にとって信仰はただの飾り物ではなかったのです。いや、それ以上に、他ならぬ御霊なるキリストご自身がパウロを通して、今も生きて働いていることをお示し下さったのです。ハレルヤ!主をほめよ。

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【主日礼拝メッセージ】                                     2007年1021

生きておられるイエス」 

使徒言行録25章13-27節

高橋淑郎牧師

 ここにいうアグリッパ王とは、かつて使徒ヤコブを手にかけ、ペトロを捕えて死刑を言い渡したヘロデ・アグリッパT世(使徒言行録12章)の子で、アグリッパII世のことです。彼は紀元28年に生まれ、72歳で死んだと言われています。アグリッパ1世と同様に、彼も幼い頃からローマに渡り、そこで教育を受けていましたが、父の死(同12:23)を告げられたときもローマに滞在中で、齢(よわい)僅か17歳でした。時の皇帝クラウディオは、彼に父の後を継がせようとしましたが、側近から、17歳の若さで何かと問題の多いユダヤを統治するには無理があるという助言を受け入れて、皇帝はユダヤを再びローマの直轄領とし、その代わりアグリッパU世にはカルキスの王であった叔父の死後、カルキス王国と神殿の監督、それに大祭司の任免権を与えました。彼は終生親ローマ政策を貫いたので、クラウディオの後継者ネロ皇帝も彼の領土を加増し、その支配権を拡大させました。(F.F.ブルース著「使徒言行録」注解より)
妹のベルニケ(正しくはベルニーケー)は、ラテン風にはヴェロニカと発音するそうです。アグリッパU世とは1歳下の妹で、カルキスの先王ヘロデの妻でしたが、王の死後、フィリポ・カイサリアにいる兄アグリッパU世の許に身を寄せていました。


 この二人が新任の総督フェストゥスに表敬訪問しました。総督が何かの話の折に、「実は、・・・」と、前任者フェリクスの置き土産として留置したままの使徒パウロのことを話題にしました。総督フェストゥスの話を整理しますと、
 赴任の挨拶のためにエルサレムに行った折、ユダヤ人たちがパ ウロを有罪にしてほしいと申し出てきたが、被告人に弁明の機会を与えないまま判決を下すことは、ローマ人の習慣にないと返事をして、カイサリアで裁判を開いた。 ところがいざ裁判をしてみたところ、パウロには死罪に当たる何の罪も見出せないことが分かった。ことは、ユダヤ人の宗教上の問題で、死んだはずのイエスが生きていると主張しているパウロの発言にあるようだ。
B自分はこの問題の調査の方法が分からないので、エルサレムに行き、そこで改めて裁判を受け直してみてはどうかと提案したところ、パウロは皇帝に上訴すると言うので、ローマへ護送すべく準備中である。と、ここまで聞いたとき、アグリッパII世は、パウロという人に興味を抱き、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」と、願い出ましたから、総督は、「明日、お聞きになれます」と応じました。

 ここで、少しばかり19節の言葉に拘ってみたいのですが、フェストゥスは、「ユダヤ人がパウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関すること」と言いました。新約聖書の中に、というよりも聖書全体で、「宗教」とか、「宗教心」と言う言葉は、この使徒言行録の中に3箇所見られるだけです。使徒パウロはこの後フェストゥスとアグリッパU世とベルニケの前で自分の信仰の証しをしますが、その箇所で、「わたしたちの宗教の中で」(同26:5)と言っています。この場合は確かに、真の神に礼拝をささげるという意味で用いられていますが、フェストゥスがユダヤ人を指して言った、「彼ら自身の宗教」という言葉と、かつてパウロがアテネにおいて、ギリシャ人の「宗教心」について語った言葉(同17:22)は共に、そのまま訳すと、「悪霊礼拝」或いは、「迷信」という意味ですから、一種の軽蔑の思いが込められているのです。つまり、総督の言葉は一件丁重な言葉遣いの中にも、アグリッパU世を含めてユダヤ人の宗教心をその程度にしか見ていないということです。ましてや、「死んでしまったイエスとかいう者・・・が生きている」と主張しているパウロの宗教心は、「迷信の域を出ない戯言(たわごと)」なので、ローマ法に照らして裁くにも値しないということになります。
それでもフェストゥスの時代は、キリスト教会が告白し、宣教の中心としている復活信仰に対して、まだこの程度の受け取り方でした。しかし、この後次第にキリスト教会に対する締め付けは厳しくなっていきます。皇帝を神と呼ぶことを強制する時代になると、キリストを神と呼ぶことは、もはや迷信の域を出ないたわごとでは済まされません。


 今の時代もそうです。普段は科学万能を誇り、キリスト教会を毒にも薬にもならないと聞き流していても、体制にとって目障りな存在になったとき、もはやたわごとと聞き流すことができない力が働くことでしょう。それでも、「イエスは主キリスト、聖書が証する神こそ万物の創造者である。」と宣教を継続するキリスト者が一体何人いるでしょうか。今日の箇所は、ある意味でぬるま湯に満足しているわたしたちキリスト者の鈍い耳に、鋭く響く警鐘であると言えます。
 主イエスは、ご自身に従おうとする弟子たちに、「蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」(マタイ10:16)と言われました。この世に対しては油断なく、聖霊による知恵で対抗し、神に対しては常に従順であることが求められています。その意味でパウロの生き様はわたしたちに、その賢さと素直さの見本を見ることができます。
彼は、三回にわたる伝道旅行を終えてエルサレムに帰ってきましたが、ほっとする間もなく不信仰なユダヤ人の手で捕えられ、何度となく生命の危険に曝されました。しかし、その都度、上から賜った知恵を用いて危機から脱し、それを好機に替えることができました。実際、パウロを亡き者にしようと追い迫るユダヤ人の執念は凄まじいものです。また同じカイサリアに幽閉されていても、賄賂欲しさに優柔不断な取り扱いをしていたフェリクスの時と違って、全てを几帳面にこなす実務型のフェストゥスが、ユダヤ人の関心を買いたさに再びエルサレムに移送すると断を下すなら、彼の命はないでしょう。或いはこのカイサリアで無罪放免されることはもっと危険なことです。何度も言うことですが、パウロはもとより自分ひとりの生命を惜しむ人ではありません。ですが、もっと大きな使命が彼をして生き延びるための知恵を必要とさせるのです。今はどうしても死ぬわけには行きません。主ご自身が彼をローマに行く道を開いてくださるはずです。なぜなら、それが主のご命令であり、約束であったからです。しかし、パウロはその約束が果たされるために、或いはご命令なのだからと漫然と道が開かれるのを待っていたわけではありません。いかにすればローマに行く道が開かれるかと、パウロはそのための知恵を祈り求めたに違いありません。そして示されたのが、ユダヤ人の訴えを逆手にとって、彼の方から、しかもローマ市民権を利用して皇帝への上告という、真に奇抜なアイディアを思いついたのです。こうして死から生へのどんでん返しが成功しました。
 そうです。パウロは口先だけで、「イエスは復活された。そして今も生きておられる」と証ししただけでなく、「皇帝への上告」を申し出るという手段を実行することで、主は生きておられることを明らかにすることができました。彼にとって信仰はただの飾り物ではなかったのです。いや、それ以上に、他ならぬ御霊なるキリストご自身がパウロを通して、今も生きて働いていることをお示し下さったのです。ハレルヤ!主をほめよ。  祈りましょう。


天の父なる神さま。あなたの御名を崇め、讃美します。
 イエスさまはわたしたちに、蛇のように賢く、鳩のように素直であれと言われました。
実際にどうすることが蛇のように賢い生き方、鳩のように素直な信仰生活ができるのか、なかなか難しいことですが、今日の聖書テキストから、特に使徒パウロの姿勢から、なるほど、こうすればよいのかと学ぶことができました。危機に陥ったときにもそれを好機に替えて充実した人生を送る秘訣を学ぶことができました。主イエスは甦って、今も生きておられるのだという確信をゆるがせにしない限り、望みが絶たれる心配はありません。祈ることができるからです。あなたに祈り求める限り、あなたはどんなときにも困難を乗り越える知恵と勇気を与えてくださいます。
 あなたが僕となって、先ず弟子の足を洗ってくださったことによって主と呼ばれ、世界のために十字架で命を捨ててくださいましたから、世界の王となり、栄光の座にお着きになりました。
どうか、いつもあなたが主となって、わたしたちの心の王座を占めてください。そして、わたしたちもまた生きておられる主に倣って賢く世に仕え、素直にあなたに従う者とならせてください。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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