【主日礼拝メッセージ/証の要約】                                   2007年1028

み心を求めて」 

第二コリント4章5−10節

安部かおり姉

 イザヤ64:7では、「わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業」とあり、エレミア18:3〜4では「彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」とあります。聖書の随所で神様は陶工師であり、わたしたちは粘土として例えられ、神様は、わたしたちを「神様の器」としてふさわしく練り、お造りくださっています。私はかつてろくろを回して自分の手で器を作った経験がありますが、体力、集中力や根気が必要でありとても難しく、壊しては作り直しをしてばかり・・・、とても満足いく器はつくれそうもありませんでした。しかし、その「造る」という過程において、おぼろげに自分の手のひらで器を抱える心地よさを味わい、自分の思いがそのまま器に現わされていくという「癒し」にも似た感覚を味わうことができました。自分にとって満足がいく器が出来た時はざぞかし嬉しく、愛おしいものだろうと思いました。 私は、この御ことばから、私たち一人ひとりは神様の手で思いをこめて作られたものであり、愛されている事を改めて思い感謝します。また、神様はその器が気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直しなさる方でもあります。私たちは日常、さまざまな問題や困難にぶつかることがあるのですが、神様はそれらに対し、もし私たちが誤った方向を見て、行動するならばその器は容赦なく壊す方であることもしっかりと覚えておきたいと思うのです。


 神様の私たちに対する計画は生涯わからず、私たちの思いをはるかに超えたものであり、私たちは、ただそれが心地よいものであっても、よくないものであっても神様の御心を求めつづけるのみ、そして、時には孤独に陥ることがありますが、決して独りきりということではなく、その歩む道には私たちが声を上げれば、そして、祈り続ければ友だち、家族、協力者が備えられ、御国へとより大きく近づくことが私たちには許されています。何よりも嬉しい事は、共にイエスキリストがいて下さること、イエスキリストがともにいて下さる限り、わたしたちはパウロが述べているように、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」のです。

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【主日礼拝メッセージ/証し】                                      2007年1028

み心を求めて」 

第二コリント4章5−10節

安部かおり姉

 

 今朝、高橋淑郎牧師は夏季休暇で宮崎に行かれていますので、礼拝メッセージに代えてここに証させていただくことになりました安部かおりです。
先ほどお読みいただきました聖書の個所は、現在私が心からアーメン(然り)と神様に申し上げたいところであります。
このみ言葉から勇気と希望をいただいています。
私は明日10月29日、マレーシア国のボルネオ島の北東海岸の小さな都市、コタキナバルに経つことになっています。そこで何をするのかと申しますと、夫であり、同じく当教会員の安部光彦とともに現地で孤児支援を中心とした働きをさせていただくことになりました。これから証させていただくにあたって、その経緯をお知らせする必要があるかと思いますので少しお話しいたします。
この働きは、夫、安部光彦が青年海外協力隊でマレーシアに赴任していた際に、路上生活をしている「ストリートチュルドレン」との出会いからはじまりました。マザーテレサは(マザーテレサ愛と祈りのことば,編者:ホセ・ルイス・ゴンザレス‐バラド,2000年:PHP研究所)、「世界中のどこであれ、貧しい人は、苦しんでいるキリストご自身なのです。貧しい人々の中で神の子は生き、かつ死んでおられます。彼らを通して、神はご自分のみ顔を示していらっしゃるのです」と語っていますが、その路上でほとんど死にかけていたストリートチュルドレンの中にイエスキリストを見ました。そして、生命の危機にさらされながら貧困を余儀なくされ、人としての尊厳を奪われている子どもたちに生涯仕えて行こう、という決心を与えられました。これの出会いが、安部光彦がマレーシアで孤児院(日本では、児童養護施設といいます)設立を行う動機となっています。現在、マレーシアボルネオ島、コタキナバルという都市郊外、パパールというところに素晴らしい土地が与えられました。この背景には思いを同じくする現地の熱心なクリスチャンの祈りがあり、神様の導きに他ならないと思っております。具体的には、そういった境遇の子どもたちのための孤児院設立と、子どもたちへの奉仕や現地の方々との交流を通して、日本やマレーシアの青年などをキャンパーとして迎えます。そして、様々なプログラムを通してイエス様にあるほんとうの幸せや平和、隣り人を愛することなどを互いに学びあうことを目的とした事業を行います。私自身は、5月に結婚をいたしましたが、夫と同じ経験はもちろんしてはいません。しかし、何度か現地を訪れ、日本の子どもとは事情の違う子どもたちの境遇を見て大変ショックを受けました。私のようなものでも彼らに何かできるだろうかと考え始めるようになりました。私は、これまで音楽療法士として、ピアノ教師として、知的障害者の就労支援という仕事を通じて出会った多くの素晴しい方々との交わりから得た様々な気づきは全て私に必要であった、神様が用意して下さっていたことを信じています。それらの仕事が喜びとなっている今、私自身にこうして新たな道が開かれたことは、きっと神様は私たち夫婦や私個人に対して何かを与えようとなさっておられるのではないかと信じます。結婚を含め、その決心が与えられてからマレーシアに発つまでには、様々な関門があり丁度1年かかることになりました。その過程においても一つ一つ神様は私たちの祈りに答えて下さいました。実は昨日まで仕事がありましたが、今日に至っては、本当に「0」の状態、明日から「1」というようにスタートする準備が備えられました。本当に感謝なことです。
   

 さて、聖書に戻ります。先ほどお読みいただいた聖書とあわせて、イザヤ64:7では、「わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業」とあり、エレミア18:1〜6では「主からエレミアに臨んだ言葉。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」私は陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」とあります。聖書の随所で神様は陶工師であり、わたしたちは粘土として例えられ、神様は、わたしたちを「神様の器」としてふさわしく練り、お造りくださっているというわけです。私はかつて1度だけろくろを回して自分の手で「器」を作った経験があります。その作業は力、集中力や根気が必要でとても難しく、壊しては作りなおしをしてばかり・・・、とてもとても満足いく器はつくれそうもありませんでした。しかし、その「造る」という過程においてなんとなくですが自分の手のひらで器を抱えられる心地よさを感じ、自分の思いがそのまま器に現れていくという「癒し」にも似た感覚を味わうことができました。自分にとって満足がいく器が出来た時はざぞかし嬉しいだろうなあ、そしてそのできた「器」は愛おしいものだろうなあと思いました。

 
 私はこの御ことばから、私たち一人ひとりは神様の手で思いをこめて作られ、愛されている事を改めて安心感を与えられ、感謝いたします。また、神様はその器が気に入らなければ自分の手で壊し、それを造り直しなさる、というみ言葉にもありますように、私たちは日常、さまざまな問題や困難にぶつかることがあるのですが、神様はそれらに対し、誤った方向を私たちが見、行動するならばその器は容赦なく壊され、その道を閉ざす厳しいお方であることもしっかりと覚えておきたいと思うのです。


 最近私自身が経験したことを、神様の計画ってなんだろうなあ、といつも考えているのでお話しさせていただきます。先ほどの「陶芸造り」の話と多少重なる部分もあるかとも思うのですが、「造る」ということに関して、私は夜間の大学院を修了するためになんとしてでも9月末までに論文を書かなければなりませんでした。ほとんどの同級生はこの春にすでに修了している中で、この4月の時点では全く進んでおらず、このような状況では無理だ、と多くの教授から言われていました。私はこれからの生活のことを考えても、これ以上修了を伸ばして学費を払い続けることは得策とは思えず、また、いろいろ現地の動向が夫から伝わるにつれて何か関係なく日本で生活することは御心でないのでは、と思いました。だから、もし9月末までに論文が出せない、または、出しても通らなければ辞めよう、と決心をしました。ただ、働いていた先の利用者さんや親御さん、また事業所のアンケート調査を行い貴重なデータを収集していましたので、「書かない」という選択肢はなく出来るか出来ないかは別にしてとにかくやる!という勢いしかありませんでした。担当教授にも「もしできなければ辞めます!どうしてもダメなら早めに行って下さい。覚悟を決めます!」などと言ってしまい、後から「平山さんは、指導教官を脅した〜。このような学生は初めてだ〜」と冗談に笑われてしまいました。私もよくあんなことを言ったなあと反省しています。論文を書くときには全体をどうまとめるのかが全く思い浮かばなかったので、出来る所から丁寧に書いていくように指導を受けました。つまりどんなものが出来るか、よい素材はいろいろにあるけれどわからないということでした。ですので、序論からではなく、結論から書くという方法を行ったわけです。そしてだんだんと形造られてくるときには、なにかとても信じがたいようなわくわくした気持ちでした。また、仕事で知り合った重度の知的障害の方は、素晴らしい絵を描かれますが、まず自分が対象物の気になったところから描き始めるユニークな手法をとっていました。彼の絵はどんどん大きくなっていきますのでわきからお母様がどんどん紙を補充して、ご本人の絵が完成していくのでした。彼にとって絵の枠はないのです。完成した絵はほんとうに見事で素晴らしいものでした。


先の見えない事をすることには恐れを伴う場合があります。これらの経験を通して、少し土俵の違う話かもしれないのですが、神様の私たちに対する計画は生涯わかるものではなく、私たちの思いをはるかに超えた素晴らしいものであり、私たちは、ただそれが心地のよいものであっても、心地のよくないものであっても神様の御心を求めつづけて、祈り続けることのみ許されているものであることを覚えます。そして、それは、時には苦汁に持ち、孤独であったりすることがあるかもしれませんが、決して一人で行わなければならないということではなく、歩む道には私たちが声を上げさえすれば、友だち、家族、協力者が備えられ、考えも及ばない恵みを与えられ、共に神様の御国へとより大きく近づくことが私たちには許されているのです。そして、何よりもうれしい事は、今日の聖書の個所にもありましたように、共にイエスキリストがいて下さることを忘れてはなりません。イエスキリストがともにいて下さる限り、わたしたちはパウロが述べているように、「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出ろ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」
お祈りいたします。

 


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