【主日礼拝メッセージの要約】                                   2007年1111

わたしのように」 

使徒言行録26章19-32節

高橋淑郎牧師


 「私のようになってください」とパウロは言いました。果たして今の時代、「私のようになってください」と、いったいどれだけの人が言えるでしょうか。今日は子ども達に、神の祝福を祈る礼拝をご一緒にささげています。子ども達の祝福を祈るということは、子ども達の人生が幸せであるようにと祈る日です。
しかし、祈るだけでよいのでしょうか。神の祝福を受けるとはこういうことだ、こういう人が真に幸せな人生を送っているお手本だと示してこそ、本当に祈っていると言えるのです。では、この子ども達の祝福のために、幸せのために、あなたは、あのパウロのように、「私のようになりなさい」と、手を差し伸べることができるでしょうか。確信をお持ちでしょうか。


使徒パウロは被告人として手鎖をかけられ、足かせをはめられながら、しかも堂々と「私のようになってください」と言えた、その秘訣はコリントの信徒への手紙二4:7−10(新約聖書 p.329)にあります。人生に四方からの患難はつきものです。途方に暮れることは度々です。正しく歩みたいと思うと、迫害されます。言葉や物理的な暴力を受けて倒されることがあります。しかし、パウロはどうしてこういう大胆なことが言えたのでしょうか。その理由は、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めて」いるからです(7節)。土の器のようにもろく、壊れやすいわたしですが、イエスというかけがえのない宝物を頂いていますから、どんなことがあっても窮しない、行き詰まらない、見捨てられない、滅ぼされる心配はないのです。


わたしは小さな者であっても、わたしの内に生きて働かれる復活のキリストのゆえに、「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」と言えるのです。
同じことをわたしも皆さんに申し上げます。どうか、わたしのようにイエス・キリストを信じ、この方をあなたの本当の宝物として心の王座に迎え入れてください。そうすれば、あなたとあなたの家族は幸いな人生、祝福された勝利の人生を約束されるのです。

 

福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセージ】                           2007年1111

わたしのように」 

使徒言行録26章19-32節

高橋淑郎牧師

 

 「アグリッパ王よ」とパウロは呼びかけます。これは26:2から引き続いての呼びかけです。彼はローマ総督フェストゥスの裁判に引き出されているのに、総督に対して自分の無罪を認めてもらおうとか、原告のユダヤ人に反論しようなどという言葉は微塵も見られません。彼の弁明の対象は偏(ひとえ)にヘロデ・アグリッパ2世であり、その内容は彼の信仰の証であり、同時にそれは伝道メッセージなのです。この時突然、総督はパウロの話に割って入り、「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」と中断させようとしました。ローマ人フェストゥスにとって、パウロの弁明は退屈なものであったのでしょう。実際、フェストゥスならずとも、神を知らない人、聖書が証しするイエス・キリストに何の感動も覚えない人にとって、キリスト教会の礼拝、そしてそこで語られるメッセージは退屈極まりないし、頭のおかしい人間のたわごととしか聞こえないのかもしれません。


 しかし、パウロはそれでも語ることをやめません。「わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを語っているのです。」と一蹴して、再びアグリッパに向かって、「王はこれらのことについてよくご存知ですので、はっきりと申し上げます。」と、なおも語り続けます。純粋なユダヤ人ではなく、エドムの血を引くヘロデ・アグリッパ王ですが、エルサレムの王宮に住む以上、祭司や律法学者がいつも側近として仕えているのですから、多少なりとも聖書の知識はあったでしょうし、父アグリッパT世の治世に起こった出来事ですが、イエスが十字架に死んだのに、甦ったという噂は、彼の耳にも当然入っていたことでしょう。いいえ、それは噂どころか、「このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。」と言いました。だから、パウロは率直にイエス・キリストの福音を語り聞かせたのです。そして、「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」と尋ねました。これがパウロの真骨頂です。彼にとって生きることはキリストだからです(フィリピの信徒への手紙1:21)。


 王はこのように、満座の席で決心を迫られたものですから、大いにあわてました。そして身構えて切り返します。「短い時間でわたしをキリスト信者にしてしまうつもりか。」と。それにしてもアグリッパ王はどうして、「預言者たちを信じておられると思います。」と言われただけで、それがキリストを信じることにつながると警戒したのでしょうか。預言者たちを信じることと、イエスを信じることがひとつだとどうして気付いたのでしょうか。ここが問題です。アグリッパ王の心の中には、少しずつ、しかも王自身も気付かないうちに、古(いにしえ)の預言者たちを信じるということは、預言者たちが書き遺した証言集である聖書を神の言葉と信じることにつながると悟るに至っていたのです。しかも、その預言者が証していることの中心は、パウロの告げるメッセージと結び合わせてみると、ユダヤ人が待ち焦がれているメシアこそ、ほかでもないナザレのイエスであり、人としてお生まれになったキリストの降誕物語であり、そして十字架の死と復活の物語であるということに行き着くのです。このことはもう誰も否定しようのない事実として、人々の目に、心に焼きついているはずだからです。宮廷に育ったアグリッパU世とて知らないはずはないというのです。王はここまで断言されては反論することもできなくなりました。そこで答に窮した王は、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」と問い返さざるを得なかったのです。
 表面上は、確かにパウロは被告人であり、王はその裁判を傍聴する立場にありました。しかし、神のみ前に、二人は全く逆の立場に置かれているのです。パウロは鎖につながれている両手を差し伸べて、あたかもアグリッパ王や、並み居る人々の手を握るようにして、「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」と奨励し、人々にイエス・キリストを救い主と信じて受け入れるようにと招きをするのでした。

 今日は主にあって愛する子ども達に、神の祝福を祈る礼拝をご一緒にささげています。この子ども達の祝福を祈るということは、この子ども達の人生が幸せであるようにと祈る日です。主イエスは言われました「子どもたちを来させなさい。わたしにところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイによる福音書19:14)と。
しかし、祈るだけでよいのでしょうか。神の祝福を受けるとはこういうことだ、こういう人が真に幸せな人生を送っているお手本だと示してこそ、本当に祈っていると言えるのです。では、この子ども達の祝福のために、幸せのために、あなたは今日の政治の世界を見て、実業界を見て、経済界の人たちを見て、教育界を見て、また法の番人たちを見て、つまり広く世の大人たちを見回して、「ああいう人を目標にして人生を送りなさい。」と言える人が何人思い出せるでしょうか。もちろん広く世の中を見渡せば、立派な人も中には見かけます。しかし、パウロがいう意味での模範となる人はどうでしょうか。いいえ、人をあてにしてはなりません。あなた自身はどうでしょうか。自分の息子や娘に、また世の子どもたちに向かって、いや、全ての人に向かって、「私のようになりなさい」と、胸を張って言う自信がありますか。あなたは、あのパウロのように、「私のようになりなさい」と、この世に向かって手を差し伸べることができるでしょうか。確信をお持ちでしょうか。
使徒パウロは被告人として手鎖をかけられ、足かせをはめられながら、しかも堂々と「私のようになってください」と言えたのはなぜでしょうか。その答えはコリントの信徒への手紙二4:7−10(新約聖書 p.329)にあります。あの手紙の中でパウロは、「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。」と書き送っています。


 人生に四方からの患難はつきものです。途方に暮れることは度々です。神のみ前に正しく歩みたいと思うと、必ず迫害されます。言葉や物理的な暴力を受けて倒されることがあります。しかし、パウロはどうしてこういう大胆なことが言えたのでしょうか。その秘訣は、この手紙の4:7にあります。「わたしたちは、この宝を土の器の中にもっている。」と、これです。土の器のようにもろく、壊れやすいわたしではあっても、このわたしの中に、イエスというかけがえのない宝物を頂いているから、どんなことがあっても窮しない、行き詰まらない、見捨てられない、滅ぼされる心配はないのです。わたしは自慢できるような者でなくても、わたしの内に生きて働かれる復活のキリストの故に、「今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。」と言えるのです。


 同じことを私も皆さんに申し上げます。どうか、わたしのようにイエス・キリストを信じる者となってください。イエス・キリストこそがあなたの本当の宝物ですから、今こそあなたの心の王座に迎え入れてください。そうすれば、あなたとあなたの家族はゆるぎなく幸いな人生、祝福された勝利の人生を約束されるのです。
 祈りましょう。


 天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。
 今朝、わたしたちはあなたのみ前にある幼子達と共にあなたに礼拝を献げ、この幼子達一人一人にあなたの祝福がありますようにと心を込めて祈りました。
あなたは言われました。「天の国はこのような者たちのものである。」と。この世にあってキリストの教会こそその天の国の雛形であります。あなたはこの教会に、あなたの愛する幼子を委ねてくださいました。それは、わたしたちがこの幼子のために、わたしたちをして信仰の模範者とならせるためでした。
 使徒パウロは、鎖につながれた手を差し出しながら、そこにいる全ての人々に向かって、「わたしのようになりなさい」と大胆に証しましたが、わたしたちがこの教会に導かれ、礼拝をささげるのも、ここで全き信仰に生きる道を学び、この確信をもって、世の人々に向かって、「わたしのようになりなさい」と証しするためでした。
主よ、どうかあなたのみ前に礼拝をささげている一人びとりをして、この確信に生きる者、世の人々を愛し、あなたの御子イエス・キリストという、二つとない真の宝物を受け入れるようにと証するものとして、ここからお遣わし下さい。
私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む