【主日礼拝メッセージの要約】                                   2007年1118

神に聴くか、人に聞くか」 

使徒言行録27章1-12節

高橋淑郎牧師


 S牧師からお聴きしたことです。あるきっかけで警察署に留置されている容疑者との面会に応じています。犯罪の性質上、刑事さんや国選弁護人に邪険に扱われています。最近も警察の人から、「まだ訪問を続けるつもりですか。そんなに無理をしてまで来なくても、どうせああいう男はろくでもない人間なのに・・・。」と言われたそうです。しかし、S師が、「人は誰でも変えられるのです。もしあなたがたの仰るように、ろくでもない人間であれば、尚のことこのまま見捨てたら、あの人は益々悪くなります。しかし、もし悔い改めたら、世の為、人の為どれだけ役立つ人になるかわかりません。神さまのなさることに不可能はないのです。」と答えました。さすがの刑事さんたちも、「仰る通り、彼を見捨てたら、益々大変なことをしでかすかもしれません。よろしくお願いします。」と丁重に頭を下げたということです。S師は今も面会室に通い、容疑者との関わりを続けてくださっています。
 今日の聖書に見る百人隊長は重大な局面で、一体誰の言葉に耳を傾けたでしょうか。彼は囚人パウロに好感を抱き、聖書の神について聴いていたでしょう。しかし、具体的な問題になると、結局神の人の勧めではなく、船主や多数の意見に従ってしまいました。
 わたし達もまた人生の岐路に立たされた時、あれかこれかの選択を迫る重大な局面に立たされることがあります。その時、耳に飛び込んでくる多くの助言の、どれが真実な言葉かと迷うことがあります。神に従うか、人に従うかを正しく選び取る霊的な耳を必要とします。聖書は次のように言っています。「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」(イザヤ書53:6)
 迷える羊のわたしたちが犯す不義、失敗、過ちを全てその身に負って下さった(=十字架)方とは一体誰でしょう。イエス・キリストです。彼だけがわたし達の人生に責任を持ち、歩むべき道筋となって下さいました。この方こそ真に頼るべき人生の助言者、また命の導き手です。この方にこそ聴き従いましょう。

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【主日礼拝メッセージ】                                      2007年1118

神に聴くか、人に聞くか」 

使徒言行録27章1-12節

高橋淑郎牧師

 

 今日初めて礼拝に来られた皆さんを心から歓迎します。多分この使徒言行録という聖書の箇所を読まれたのも初めてでしょうから、少し説明しておきます。
パウロという名の人が見られます。この人はかつてユダヤ教の教師でした。キリスト教が大嫌いでキリスト者もキリスト教会もこの地上からなくすことこそ神のお心に適うことと信じて、迫害の先頭に立っていました。しかし、あることがきっかけで回心し、何とクリスチャンになりました。すると、今までとは正反対に、イエス・キリストこそ真に神の子であり、神であると、国内は勿論、小アジアからヨーロッパへと伝道して回りました。そして何年ぶりかでユダヤのエルサレムに帰ってきた時、ユダヤ人の手で捕まえられて裁判にかけられました。ユダヤ人たちの本当のねらいは裁判なんかどうでもよく、とにかくパウロを殺してしまいたかったのです。それを知ったパウロは、ローマに行って伝道することが自分に与えられた神からの使命だと信じていましたから、ローマの皇帝に上訴しました。


 こうしてパウロは、いよいよ拘留されていたカイザリアを離れることになりました。これからローマまでの長い船旅が始まります。但し、囚人専用の護送船ではなく、一般の旅行客と同じ船に乗り合わせることになりました。途中何事があるか分かりません。それで総督フェストゥスは、パウロを含めた数名の囚人を護送するにあたって、皇帝直属の部隊である近衛隊に監視させることにしました。隊長はユリウスという百人隊長です。恐らく皇帝の命令を果たして帰路に着くところだったのでしょう。
ユリウスの配慮もあって、パウロの友人数人も同行を許されました。一人はわたしたちが今読んでいるこの使徒言行録の著者であり、パウロの主治医でもあったルカ、もう一人はマケドニア人のアリスタルコです。どのようなコースを辿ってローマに行ったのかを知りたい人は、聖書巻末の、「9 パウロのローマへの旅」という地図を見ながらメッセージを聴いてください。最初の寄港地はシドンです。一般の乗船客の安全第一ですから、囚人たちは当然隔離されていたでしょう。しかしパウロだけは特別扱いです。シドン滞在中、シドンの町にいる友人を訪ねて行くことも、そこでもてなしを受けることも許されました。これも百人隊長ユリウスの配慮です。


 次の寄港地はおおよそ2週間かけてリキア州のミラです。このミラからは、エジプトやローマへの直行便が出ていたということです。それほど大きな港でした。折しもエジプトのアレキサンドリアからイタリア行きの穀物船が停泊していたので、百人隊長はその船に乗り換えることにしました。「聖書地理」(p.266 馬場嘉市著。教文館)によると、全長凡そ55m、排水1,200トンの帆船で、乗員・乗船客は合わせて276名です(37節)。帆船の旅は風の影響を受ける以上、思うに任せないのは仕方のないことです。無風状態が続いたかと思うと、今度は逆風に悩まされて、船はジグザグを繰り返し、やっとのことでクレタという島にある「良い港」に停泊できました。地図で見た限りでは、イタリア半島まで残り半分の道のりです。9節に。「かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていた」とありますが、これはユダヤ暦でいうティシュレの月の10日に当たる大贖罪日のことです。すなわち太陽暦でいう10月半ばを過ぎていました。すなわち「良い港」に着いたときは、これ以上地中海を航行することは危険な季節(9月中旬−11月中旬までの約2ヶ月間)に入っていたことを意味します。この穀物船というのは、ローマ政府の御用舟で、船長はその請負人です。彼らは役目柄一日も早く荷物をローマに届ける責任があります。船長や船主たちは、少しでもローマに近づいておきたい一心から、せめてクレタ島西方の港フェニクスまで行けないかと、この船の最高指揮官である百人隊長にせっつきました。


 一方使徒パウロは、これまで地中海を西に東にと何度も旅を重ねていますから、海上での気象条件の知識を十分に持っています。そのパウロの眼から見ても、これ以上無理をすることは荷物だけでなく、人命を危険に曝すことになるから、このままおとなしく時期を待つべきだと勧告しました。しかし、百人隊長はパウロの意見よりも船主や船長など、多数の意見に従い、出港命令を出しました。果たしてこの後、船と彼らの運命はどうなるのでしょう。結論を言ってしまうと、この無謀な航行はパウロの心配していた通りになり、貿易風に翻弄されて漂流の果て、荷物は海中に没し、乗船していた人たちだけが辛くも全員救われてマルタ島に漂着しました。


 この話で気になるのは12節に見る百人隊長の決断の仕方です。彼はその初対面からパウロに親しみを感じ、囚人であるにもかかわらず、パウロだけを特別扱いするほどでした。しかしその彼が生死を分ける決断を迫られたとき、パウロよりも船主の意見を採用するという、結果的に最もリスクを伴う命令を出すに至ったのはなぜでしょうか。宗教家は尊敬するが、船のことは専門家に聞くという常識を優先させたからです。多数意見に耳を傾けたことは肯けないこともないのですが、問題はこの船主たちの意見が、本当に冷静且つ客観的な動機からのものであったのかという点で、いささか疑問が残ります。彼らが百人隊長に出港命令を促したのは、ただ、はやく荷物を届けたいという焦りからではなかったでしょうか。


 つい最近、ある牧師からこんな話を伺いました。あるきっかけから依頼を受けて、拘留されている容疑者との面会に応じることになりました。犯罪の性質というか、手口というか、刑事さんからも嫌われていました。国選弁護人からも疎まれ、邪険に扱われていたということです。何度か留置場を訪ねるうちに、警察の人から、「牧師さんまた来たんですか〜?ああいう男はやさしい人を騙してだまして生きている悪いヤツですからね。うちらこういう奴を何人も見て来てますけど、人を利用するだけで変わらんですってぇ。常識で考えりゃぁ分かるでしょう。まぁ関わらん事ですわ〜。」と言われました。しかし、S師は、「警察がそんな事言っているから日本は全然変わらないんですよ。神さまの愛の力で悪い人が悔い改めて、人に幸いをもたらす良い人に変わったらいいと思いませんか?私は、悪い人が変わる事も許されないで、ただ見捨てられて悪人のまま出所してこの世に野放しにされる方がよっぽど怖い事だと思いますよ。」と応じました、さすがの刑事さんたちも、「・・・・はい、申し訳ありませんでした。全く仰る通りですわ。誰かが手を差し伸べてやらんと、あいつ、もっと悪い人間になってくしかないですもんね。よろしくお願いします。」と丁重に頭を下げたということです。国選弁護士にも同じ事を言われ同じ返事をしたということです。S師は今も面会室に通い、容疑者との関わりを続けてくださっています。

 今日の聖書に見る百人隊長の決断に至った動機のことをもう一度考えて見ましょう。百人隊長はあの重大な局面で、一体誰の言うことに耳を傾けたでしょうか。彼はパウロという人物を快く思っていました。囚人の一人であることを百も承知しながら、彼だけを特別扱いするほど、心を許していました。それほど親しくしていたのですから、パウロから聖書の神がどのような方であるかということを僅かでも聞かされていたに違いありません。しかし、彼は目の前で起こりつつある問題になると、結局神の人の勧めではなく、船主など多数の意見に従ってしまいました。
S牧師の愛と熱心を理解できない人たち、ただ法律の条文のままに処理しようとする人たちの言葉と、聖書の中の船主たち多数の意見がひとつに見えるのはわたしだけでしょうか。それとは対照的にS師の言葉と使徒パウロの言葉もまたわたしにはひとつに聞こえます。前者の言葉には物が大事、組織や立場が大事という思いしか伝わってきません。しかし、使徒パウロとS師の言葉には人間の霊と心、つまり命が大事という思いが溢れています。
わたし達も人生の岐路に立たされた時、あれかこれかの選択を迫る重大な局面に立たされることがあります。そうした時、わたしたちの耳にもいろいろな人があれこれと助言をしてくれる声が飛び込んできます。その多くの助言の中で、果たしてどれが真実な言葉であるか、神の言葉と信じてよいか迷うことがあります。神に聴き従うか、人に聞き従うかを正しく選び取る霊的な耳を必要とします。どんなに尤もらしく聞こえる助言や提案であっても、物が大事であるとか、組織や立場を優先するような言葉には危険がはらんでいます。神に愛されている人間を第一としてこれを尊び、一人ひとりの霊と心、即ち命を大切にする言葉こそ、神からの語りかけとして聴き従う価値があるのです。聖書は次のように言っています。
「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」(イザヤ書53:6)

 迷える人生のわたしたちが犯すさまざまな不義、失敗、過ちをすべてその身に負って下さった(=十字架)この方とは一体誰でしょう。イエス・キリストです。この方だけがわたし達の人生に責任を持ち、歩むべき道筋となってくださいました。イエス・キリストご自身が次のように言っておられます。 
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書14:6)
この方こそ真に頼るべき人生の助言者であり、命の導き手です。この方にこそ聴き従いましょう。 祈ります。

天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。
わたしたちの人生は、あたかも未知の大海原を航海する小さな船のようなものです。この人生という船が、一体どこを目指しているのか、何を目当てとしているのか分かりません。ただ昨日までの経験を手がかりとして、或いは国家や社会とのつながりの中で、家族や友人、知人との付き合いから得た知識で、見よう見まねに世渡りをしているに過ぎません。しかし、世の中は時として無風状態のように、こちらの努力もむなしく遅々として進まず、良かれと思ってしたことが、世間からのバッシングという逆風にあって、孤立させられたり、軌道修正を迫られます。
すると大抵、「ああしろ、こうしろ」と親切に助言をしてくれる人が現われます。この声をわたしたちは無視してはなりませんが、あの百人隊長が相反する助言の選択を誤り、その後多くの積荷を失い、人命を危険に曝す結果を招きましたように、わたしたちも相反する助言を前にして、人と自分の生命を危険に曝すことにならない賢明な選択が必要です。その賢明な選択のためにはどうしても聖書が必要です。聖書は命の言葉といわれているからです。わたし達の人生における選択の根拠は物質を優先させることではないはずです。組織を維持することにこだわるべきではないはずです。大切なことはわたしにかかわる全ての人の体と心と命を優先する助言にこそ耳を傾けることを、あなたは教えておられます。何を求める前に、先ず神の国と神の義を求める祈りからわたし達の明日から再開される生活の第一歩とさせてください。
私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。


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