【主日礼拝メッセージの要約】                                   2007年122

かつてはわたしも」 

使徒言行録26章1-11節

高橋淑郎牧師

 この箇所は、思えば何と愚かなことにエネルギーを消費してしまっていたことか、と神に対する償いきれない罪を悔い改めているパウロの言葉なのです。
わたし達も同じような罪を重ねる日々ではないでしょうか。聖書を斜め読みして分かったつもりになって、的外れな解説をする人はいませんか。礼拝メッセージを良い加減に聞き流して教会批判をしている人はいませんか。神が天地を創造し、死人を復活させたという聖書の記事を愚にもつかない神話としている人はいませんか。家にツリーを飾り、我が子の枕元にプレゼントを置く良き父親・母親を演じ、豪華な料理とケーキをほおばりながら、神が肉体をもってこの世に降誕してくださったというクリスマスの物語を愚かな作り話と嘲笑している人はいませんか。
 実は少年時代のわたしがその一人でした。貧しい家庭に育ったわたしの家には、ツリーもなければ何もありませんでした。胃袋を喜ばせ、眼を楽しませ、心を満足させてくれるものは何もありませんでした。こんなに空しい12月の日々でも、小学生時代に離れた教会の門を再びくぐるとか、そこで本物のクリスマスを祝おうという気持ちもありませんでした。パウロほど積極的に沢山のキリスト者を迫害することはしませんでしたが、当時教会に通う姉を冷ややかな眼で眺め、時にその背中に向けて嫌味(いやみ)を言っては悲しませる小さな迫害者でした。それにもかかわらず神は罪深いわたしを見捨てることなく、16歳の春、わたしの心と足を再び教会に向けさせて下さいました。そしてアモス書8章11節によってわたしの魂を覚醒させて下さいました。その一ヵ月後の5月18日に、イエスこそわたしの唯一人の神、救い主キリストと信じてバプテスマに与りました。1958年のことです。来年はクリスチャン生活満50年になります。その後も山あり谷ありの日々でした。こんなわたしの不真実にもかかわらず、神は常に真実な方で、わたしを今日まで、そしてここまで持ち運んでくださいました。  感謝します。

 

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【主日礼拝メッセージ】                                   2007年122

かつてはわたしも」 

使徒言行録26章1-11節

高橋淑郎牧師

今読んで戴いた聖書箇所は、先週まで読んできた聖書からほぼ1章分戻っています。なぜこういうことになったのかと言いますと、10月28日にわたしが休暇を戴いたために、この日読むはずの聖書箇所を今日読ことになったという次第です。これまで1章1節から連続して読み、またメッセージに聴いてきたのですから、ここだけ読み飛ばしたくないというのが、わたしの願いであり、また主の御心と信じるからです。

 さて、今朝は二つの意味で特別な朝です。一つは主イエス・キリストのご降誕を待ち望む季節に入りました。もう一つは、45年前にアスキュー宣教師とその協力者によってイエス・キリストによる福音の種がこの地に播き始められたことに端を発しているという記念すべき日です。わたし達はクリスマスの喜びを祝う心の備えをすると共に、45年前に祈りをもって始められた主の御業を継承する信仰の共同体として選ばれていることを胸に刻み、新たな一歩を踏み出し、46年目をスタートしてまいりたいと願うものです。

 そこで、もう一度今日の聖書に眼を留めてください。使徒パウロはヘロデ・アグリッパU世から発言を促されて、自分のことを語り始めました。自分のことを話すと言っても、ただの自己紹介ではありません。彼がこれから話す内容は、イエス・キリストのことです。イエス・キリスト、このお方はどういうお方か。パウロとどのような関係があるのか。この方に出会う以前のパウロはどういう生き方をしていたのか。パウロに何をして下さったのか。それによってパウロはどのように変えられたのか。そういうことを話しているのです。

 いみじくも今日からクリスマス・アドヴェント(キリスト待降節)に入ります。クリスマス・アドヴェントとは、イエス・キリストの来臨を待ち望む礼拝を捧げるという意味があります。わたし達は25日のその日まで、毎週このクリスマス・アドヴェントの礼拝をささげ、その日を共に喜び祝うのです。しかし、パウロはこの弁明の中で、繰り返し、「神の約束の実現に、望みをかけている」と言っています。神がその独り子をこの世に賜(たまわ)るという約束は、ナザレのイエス・キリストにおいて実現したというのです。クリスマス・アドヴェントは12月の僅かな期間だけでなかったのです。ユダヤ人は実に何百年もの間、この日を待ち望み、毎週毎週会堂に集まっては礼拝をささげていました。そうです。このように彼らは何百年もの間、ずうっとアドヴェントの日々を過ごしていたのです。そして今パウロは言います。「もう待つ必要はなくなった」と。ユダヤのベツレヘムにお生まれになったイエス、ナザレに育ち、ガリラヤで弟子を選んで訓練し、エルサレムの郊外で十字架に上げれて死んで葬られ、三日目に甦られたあのイエスこそ、まさに神の約束が実現した証としてのメシア(キリスト)であると言うのです。
しかし、今も昔も人はなかなかこの事実を信じることができません。不信仰なユダヤ人にとって大きな躓(つまず)きのもととなったイエスの復活についてですが、パウロはアグリッパ王をはじめ、並み居る同胞ユダヤ人たちに対して、「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えなのでしょうか。」と言っています。ユダヤには十二の部族がありますが、その十二部族の人々全員が、「夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んで」いるのです。彼らはその約束をどこから得ることができたのかと言いますと、旧約聖書です。彼らは、聖書の第一頁に書かれている、「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)という宣言を、そのお言葉のまま素直に信じていました。神は無から有を創造することのできる全能の主であると信じることのできるあなたがたが、どうして死人を再び生き返らせることができると信じられないのか不思議でならない。とパウロは言いながら、「しかしわたしもかつてはあなたがたと同じで、イエスを神の約束の徴(しるし)である救い主、キリストだと信じることができない時があった。」と正直に告白します。ユダヤ教時代のパウロという人は、はなはだ恐ろしい力の持ち主で、ただ個人的にイエスを信じていなかっただけではありません。その不信仰ぶりは実に徹底していました。彼はファリサイ派の一人として、また律法、すなわち旧約聖書に証言されている神に忠実な指導者であるためには、「ナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだ」と考えていたのです。このようにフットワークのよさでは誰にも負けない彼はキリスト教撲滅運動の先頭に立ち、エルサレムでは満足できず、外国の町々にまで迫害の手を伸ばし、その地域にある会堂という会堂に入って行っては、キリスト者を片っ端から逮捕・拘留し、死刑の判決に際しては喜んで一票を投じていた、と告白します。
この箇所は、思えば何と愚かなことにエネルギーを消費してしまっていたことか、と神に対する償いきれない罪の悔い改めをしているパウロの言葉なのです。

 わたし達も同じような罪を重ねる日々ではないでしょうか。聖書を斜め読みして分かったつもりになって、的外れな解説をする人はいませんか。礼拝メッセージを良い加減に聞き流して教会批判をしている人はいませんか。神が天地を創造し、死人を復活させてくださったという聖書の記事を愚にもつかない神話として、受け付けようとしない人はいませんか。家の中にツリーを飾り、子どものためにサンタクロースの役を引き受けてそっと枕元にプレゼントを置く良き父親・母親を演じる一方、グラスにシャンペンを注ぎ、豪華な料理とケーキをほおばりながら、主イエス・キリストに対して礼拝をささげる讃美の気持ちもなく、見えない神が肉体をもってこの世に降誕してくださったというクリスマスの物語を愚かな作り話と嘲笑している人はいませんか。
実は少年時代のわたしがその一人でした。勿論貧しい家庭に育ったわたしの家には、ツリーもなければシャンペンも豪華な料理もケーキもありませんでした。それでもクリスマスの季節にはなんだか心浮き立ち、この世的な何かを期待する気持ちに変わりはなかったのですが、来る年も来る年も、その期待は裏切られるばかりでした。胃袋を喜ばせ、眼を楽しませ、心を満足させてくれるものは何もありませんでした。このように毎年空しい12月の日々であったのに、小学生時代に離れてしまった教会の門を再びくぐるとか、そこで本物のクリスマスを祝おうとか、クリスマス礼拝をささげようなどという気持ちもありませんでした。パウロほど積極的に沢山のキリスト者を迫害することはしませんでしたが、当時せっせと教会に通う姉を冷ややかな眼で眺め、時にその背中に向けて嫌味(いやみ)を言っては悲しませる小さな迫害者でした。
 それにもかかわらず神は、卑怯で罪深いわたしを見捨てることなく、16歳の春、神は二人のキリスト者を通してわたしの心と足を再び教会に向けさせて下さいました。そしてアモス書8章11節によってわたしの魂を覚醒させ、わたしの金銭的・物質的飢え渇きは、神の御言葉に対する飢え渇きを自覚させるためのご配慮であったことを知らしめて下さいました。その一ヵ月後の5月18日に、イエスこそわたしの唯一人の神、救い主キリストと信じてバプテスマに与りました。1958年のことです。来年はクリスチャン生活満50年になります。その後も山あり谷ありの日々でした。こんなわたしの不真実にもかかわらず、神は常に真実な方で、わたしを今日まで、そしてここまで持ち運んでくださいました。感謝します。そして  祈ります。

天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。
クリスマス アドヴェント第一主日の今朝、わたしたちは主イエスのご降誕を待ち望み、同時にこの地に福音の種が播き始められて46年目に入ろうとしている今日の記念すべき日に、わたしたちは、心新たに信仰の継承者として新たな一歩を踏み出そうとしています。
 天のお父さま、あなたが仙川キリスト教会に今求められているのもこれでした。初めて教会堂の敷居をまたぐ人々に、またわたしたちの周囲にいる人々に、神は生きておられるという確信を与えることです。それには先ずわたしたちキリスト者が、この希望に立つことです。わたし達に喜びがなくて、どうして人々の心を奮い立たせることができるでしょうか。主よ、先ずわたしたちの心を聖霊で満たしてください。復活の主イエスにある永遠の命に溢れさせてください。
私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。


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