【2008新年礼拝メッセージの要約】                                 2008年16

喜びにあふれて」 

 フィリピの信徒への手紙4章4節

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさない。」

 

高橋淑郎牧師


 福音書にこういうお話があります。ガリラヤ湖に吹きつける嵐の中で、弟子たちは舟を漕ぎあぐねて、危うく沈没かと思われたとき、湖の上を歩いて近づいてくる姿がありました。主イエスでした。弟子の一人ペトロはそれを見て、「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と願い出ました。主は許してくださいました。ペトロは湖面に一歩足を踏み出しました。彼の目はしっかり主イエスに結び付けられていましたから、水面は彼の足を受け止めて湖の上を歩くことができました。しかし、吹きつける風に気をとられて、主イエスから目が離れたとき、たちまち沈みそうになりました。主イエスはすぐに彼を助け上げながら言われました、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と(マタイ14:24−31)。これは私たちの人生に襲いかかる問題という嵐に見舞われたとき、わたしたちの心の目が一体どこに向けられているかということを教えているのです。
私たちの人生にはこれでもかというように問題の嵐が容赦なく、そして続けざまに吹き荒れることでしょう。実はそうした問題こそ、私たちの信仰を練り上げるために、神が与える訓練なのです。大事なのはそのとき、わたしたちの信仰のありようはどうなっているかということです。どこまでも主を信じ、心の眼をしっかり主に向けているなら、わたしたちは決して試練の嵐の中に埋没してしまうことはありません。主と共に困難な問題を踏み越えて前進することができるのです。解決へと導かれるのです。平安と勝利を与えてくださるのです。


 あのガリラヤ湖の出来事をもう一度考えてみてください。あの時、主イエスは御自分だけ安全な場所にいて弟子たちの行動を監視しておられたわけではありません。主ご自身、あの嵐の中を踏み越えて、弟子たちのもとに近づいて下さったのです。同じ条件に身を置いて、弟子たちを救って下さったのだということを見落としてはなりません。「主が弟子たちの船に乗り込まれたとき、風は静まり」ました。その時、弟子たちは平安を回復して頂きました。心の底から喜びに溢れました。
今日、いやこの一年のために忘れてならないこと、それは、「信仰」と「喜び」は別々の次元ではなく、同心円です。喜びは信仰を裏付けます。信仰は喜びをもたらします。子は親を信じてこそ喜びです。まして、神を信じる者の喜びはいかばかりでしょう(ネヘミヤ記8:10)。

 

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【2008新年礼拝メッセージ】                                  2008年16

喜びにあふれて」 

 フィリピの信徒への手紙4章4節

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさない。」

高橋淑郎牧師

 

 「一年の計は元旦にあり」、という諺がありますが、わたしたちはその元旦礼拝において、マルコによる福音書9章8節を通して、わたしたちの仰ぎ見るべきは、被造物である初日の出ではなく、その太陽を造られた天地創造の主イエス・キリストであること、このお方だけを仰ぎ見て、このお方にこそ手を合わせるべきで、この神の前に出ることが真の初詣なのであると導かれました。
そして、今日は新しい年を迎えて最初の主日礼拝です。主イエスを見上げたとき、わたしたちの耳に力強い御声が聞こえてきます。「主において常に喜びなさい」という御言です。今日の礼拝のためのテキストとして頂いているフィリピの信徒への手紙を「喜びの手紙」という人がいます。確かに、著者パウロはこの手紙の中で、17回も「喜び」という単語を用いています。また、Uコリント6:10、ガラテヤ5:22、Tテサロニケ5:16など、その他多くの手紙においても、使徒パウロは、「喜ぼう」、或いは「喜びなさい」と勧めの言葉を書き送っています。


 しかし、わたしたちは毎日の生活の中で、そういつもいつも喜んでばかりはいられませんでした。残念ながらその反対のことが多かったように思えてなりません。「喜び」の反対は、「悲しみ」です。悲しみが高じて、「怒り」さえ感じることがありました。それなのに、パウロは、「いつも喜んでいなさい。」と言います(関連3:1、Tテサロニケ5:16)。確かに言葉としてはその通りです。美しいのです。しかし、どこか現実にそぐわないように感じられてなりません。悲しいものは悲しいし、腹立たしいことは事実なのです。その感情を押し隠して無理やり笑顔を作ろうとしても、その方がかえって不自然と言えないでしょうか。やはりこの御言は立派に見えますが、絵に描いた餅なのでしょうか。

 このことを考える前に、ヘブライ4:14−16を読んでみましょう。
「・・・わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
わたし達の神であり、主であるイエス・キリストは、清く高い天にあってこの地上をただ眺めて善悪、正邪を裁く方ではありません。わたし達と同様に人間の姿をとって、この地上の住人の一人となってくださいました。そして罪を犯されませんでしたが、わたしたちと同様に試練に遭われました。しかし、福音書を読み直して地上におられたときのイエス・キリストを思うとき、「わたしたちと同様に」という言葉さえ適切ではないように思えます。この方は、わたしたちの中でも最も低い立場に身を置いて、わたしたちの中で、最も惨めな最期をあえて選び取って下さったからです。すなわち、わたしたち全人類の罪を身に負って十字架に死んで下さったのです。使徒パウロは、この方を仰ぎ見ながら、わたしたちに言います。「主において喜びなさい」と。


 ある人が言いました、「もし、われわれが信仰生活をしながら毎日少しも喜ぶことができないとしたら、我々の生活の事情に問題があるのではなくてむしろ自分の信仰生活の仕方に、何か見当違いがあると思って、考え直してみる必要があるのです。」(竹森満佐一著、講解説教「ピリピ人への手紙〈下〉」)と。
その通りだと思いませんか。わたしたちが身の回りのいろいろな出来事に一喜一憂する時、また、とてつもなく大きな困難を前にしたとき、「さすがにこの問題だけは神さまでもどうしようもないだろう。」と考えることがあります。しかし、そのとき、わたしたちの心の目線はどこに向けられているでしょうか。正直言って目の前のことに心が奪われて、主イエスから離れてしまっています。主を見失ってしまっているのです。状況が私たちから喜びを奪っているように見えますが、本当はそうではなく、主イエスから心の目を逸らしたとき、わたしたちは喜べなくなるのです。


 福音書にこういうお話があります。ガリラヤ湖に吹きつける嵐の中で、弟子たちは舟を漕ぎあぐねて、危うく沈没かと思われたとき、湖の上を歩いて近づいてくる姿がありました。主イエスでした。弟子の一人ペトロはそれを見て、「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と願い出ました。主は許してくださいました。ペトロは湖面に一歩足を踏み出しました。彼の目はしっかり主イエスに結び付けられていましたから、水面は彼の足を受け止めて湖の上を歩くことができました。しかし、吹きつける風に気をとられて、主イエスから目が離れたとき、たちまち沈みそうになりました。主イエスはすぐに彼を助け上げながら言われました、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と(マタイ14:24−31)。これは何を教えようとしているのでしょうか。水の上を歩いたとか、歩かなかったという奇蹟物語に私たちの注意を惹こうというのでしょうか。そうではありません。私たちの人生に襲いかかる問題という嵐に見舞われたとき、わたしたちの心の目が一体どこに向けられているかということをこのお話は教えているのです。
私たちの人生にはこれでもかというように問題の嵐が容赦なく、そして続けざまに吹き荒れることでしょう。実はそうした問題こそ、私たちの信仰を練り上げるために、神が与える訓練なのです。大事なのはそのとき、わたしたちの信仰のありようはどうなっているかということです。どこまでも主を信じ、心の眼をしっかり主に向けているなら、わたしたちは決して試練の嵐の中に埋没してしまうことはありません。主と共に困難な問題を踏み越えて前進することができるのです。解決へと導かれるのです。平安と勝利を与えてくださるのです。


 あのガリラヤ湖の出来事をもう一度考えてみてください。あの時、主イエスは御自分だけ安全な場所にいて弟子たちの行動を監視しておられたわけではありません。主ご自身、あの嵐の中を踏み越えて、弟子たちのもとに近づいて下さったのです。同じ条件に身を置いて、弟子たちを救って下さったのだということを見落としてはなりません。「主が弟子たちの船に乗り込まれたとき、風は静まり」ました。その時、弟子たちは平安を回復して頂きました。心の底から喜びに溢れました。
今日、いやこの一年のために忘れてならないこと、それは、「信仰」と「喜び」は別々の次元にあるのではありません。一つです。同心円なのです。喜びは信仰を裏付けます。信仰は喜びをもたらします。子は親を信じてこそ平安であり、喜びです。まして、神を信じるならわたしたちの喜びはいかばかりでしょう。
ネヘミヤ記8:10(旧約聖書 p.750)の御言葉をご覧下さい。そこにはこう書かれています。
「・・・今日は、われらの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

 愛する兄弟姉妹、私たちの人生において、何が活力源になるかというと、どんな時にも主を信頼し、主を喜ぶことです。思い起こしてください。これは2005年から2007年度の今日までわたしたち、仙川キリスト教会に与えられているメッセージではなかったでしょうか。
祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。
新年最初の主の日、わたしたちはあなたから豊かな命の御言葉をいただきました。ありがとうございます。
この一年もいろいろなことが私たちを待ち伏せていることでしょう。倒産、失業、経済的困難、別れ、病など、困難な問題に直面して立ち往生することがあるでしょう。しかし、今日あなたが与えてくださった御言葉によって、わたしたちは平安に導かれました。
わたしたちはあなたを信じることによって、この世にない霊的な喜びがあり、力を賜り、勝利を約束されていることが分かりました。どうか、この一年の間、わたしたちの歩みを常に正してくださいますように。
わたしたちの尊い主イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。


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