【主日礼拝メッセージの要約】                                 2008年23

勇気づけられた」 

 
使徒言行録28章11-16節

 

高橋淑郎牧師

  信仰の仲間との出会いはパウロにとっても、またパウロを迎える教会のメンバーにとってもお互いに、どんなに慰められたことでしょう。パウロは自分を歓迎してくれる兄弟たちを見て、「神に感謝し、勇気付けられた」と書いています。正直言ってパウロの心は少し不安でした。これから先自分を待ち受けているものが何なのか、全く予測がつきません。かつて、パウロはローマに宛てた手紙の中で、「そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。」(ローマ15:29)と書き送ったことがありますが、あふれるほどの祝福を受けたのは、パウロの方です。不安材料が山ほどある中で、ローマの信徒達が惜しみない愛を注いでくれたからです、だから「神に感謝」せずにいられません。そしてこれから先、何があっても主が共にいてくださるという信仰、誰の前に引き出されても、しっかりとイエス・キリストの福音を証しようと、「勇気づけられ」たのです。

 「人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9。口語訳聖書)
これが2008年度のために教会に与えられた年間聖句です。
愛する兄弟姉妹、皆さんは新しい年度もまたこの社会の一員として、新たな意欲に燃えて、さまざまな計画をお持ちになることでしょう。しかし、これだけは常に心に留めておいて頂きたいのですが、その計画を御心に適って清め、祝福の内に導き、最終的にことをなしてくださる方は他の誰でもない、主ご自身であるということを。あなたの生活のエリアにスーパーマンは不要です。互いに主にある愛で結ばれ、信仰による祈りで一つにされている限り、そして隣人のためにという魂への情熱がある限り、あなたの人生は必ず祝福されるのです。なぜなら、神は無から有を創造することのできる方だからです。不可能を可能におできになるからです。

 

 

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【主日礼拝メッセージ】                                          2008年23

勇気づけられた」 

 
使徒言行録28章11-16節

高橋淑郎牧師

 

 長いような短いようなマルタ島での3ヶ月でしたが、いよいよイタリア本土へ向けて出港の日取りが決まり、親しくなった島の人々と心を残しながら別れました。ちょうど冬の間出港を控えていたアレクサンドリアの船があり、それに乗り込むことになりました。ルカはよほどこの船の舳先に取り付けられた飾りに興味が湧いたのでしょうか、それが「ディオスクロイ」という名前であったと紹介しています。ディオスクロイとは、「ゼウスの双子」という意味だそうです。ギリシャ神話に出てくるゼウスという神とレダという女神の間に生まれた双子カストルとポルクスを記念して名付けられたということです。この双子は船乗りの守り神として崇められていましたから、双子の顔を想像であしらったものを飾りとしてこの船に取り付けたのでしょう。日本でも香川県に金毘羅神社がありますが、この神社のご本尊クンピーラとは、ヒンズー語で「わに」という意味があり、それが香川県に伝わると、「コンピラ」となまって発音されるようになり、そこから漁師の守り神と信奉されるようになったという経緯がありますが、これと似ています。


 話の本筋に関係ないことを長々説明してしまいましたが、パウロをはじめ、276名はこの船に乗り込み、一路ローマを目指しました。最初の寄港地は、イタリア本土に接近しているシチリア島の港、シラクサでした。この島はマルタ島の何倍もある島で、一行はここに三日間滞在した後、いよいよイタリア本土最初の港レギオンを経由してプテオリに入港しました。ここからはローマまで陸路を取ることになりました。多分この船はそのまま再びアレクサンドリアに引き返すからでしょう。


 プテオリからはローマまで徒歩の旅行です。しかしすぐには出発しません。どういうわけか分かりませんが、この町に一週間ほど滞在することになりました。しかし、逃亡の恐れがないパウロとその仲間に対しては、かなり自由を与えられていましたので、彼らは町に出て、信仰による兄弟たちを尋ね歩くことができました。かつてコリントの町にいたとき、パウロはローマに行きたいという願いを込めて「ローマの信徒への手紙」を書いたことがあります。その手紙の16章(新共同訳聖書なら297頁)を開いてください。1−16節を見ると、まだ一度もローマの土を踏んだことのないパウロなのに、すでにローマ教会にいるかなりの数の人たちを知っていたことが分かります。その中の幾人かがこのプテオリの町に住んでいると聞かされていたのでしょう。しかし考えてみてください。今日のように道路地図はもちろん住宅地図なんてものはありません。電柱や家の角々に「中原1丁目24番街」という標識もありません。当り前のことですが、第一電柱などというものはなかったのです。十字架を高く掲げたキリスト教会の会堂などももちろん建ってはいません。ましてやパウロとその一行にとってローマの土を踏んだのは初めてのことです。いったい彼らはどうやってローマ教会のメンバーを探し当てることができたのでしょう。きっと大変な苦労をしながらも一歩あるいては祈り、祈っては歩きながら探し回ったことでしょう。こうした時にはっきり言えることは、神ご自身が道しるべとなってくださったのです。その昔、東の国々から来た博士たちを、幼子イエスの御許に導いた主の使いという星のように、このローマという未知の土地にあっても、神は彼らを兄弟たちの下に導いてくださったのです。兄弟たちはパウロと同行者を喜び迎えて一週間滞在してもらいました。その彼らと別れてプテオリを出発してアピイフォルムに到着したとき、ローマ市内の信徒達はわざわざアピア街道沿いに南へ80kmもの道のりをアピイフォルムまで出迎えに来てくれました。残りの信徒たちも、55kmの道のりをトレス・タベルネまで出迎えに来てくれたというのです。そのままローマに待機していてもパウロたちはいずれ到着することは分かっていました。しかし、彼らは待ちきれなかったのです。その熱意と主にある愛に、パウロは滂沱したことでしょう。こうしてローマ市内に入ると、裁判が始まるまで、再び囚人生活が始まりました。しかしそれは監禁というよりも、かなりの自由が保証された軟禁生活です。


 思い返せば、パウロがローマへ行くことになったいきさつは使徒言行録21:27から始まっています。第3回伝道旅行から数年ぶりにエルサレムに帰国してホッとしたのも束の間、ユダヤ教の指導者たちから謂われなき容疑をかけられて逮捕・拘留され、エルサレムに続いてカイサリアでも裁判にかけられ、何度となく命を狙われました。彼はやむなく皇帝に上訴し、ローマへ護送されることになりましたが、その船旅は40日に及ぶ嵐に弄ばれながらのものでした。正直身も心も疲れ果てていたに違いありません。
しかし、今ようやくローマの土を踏み、会いたいと祈り続けていたローマ教会の信徒たちと出会うことができました。彼らの温かいもてなしは、これまで味わったさまざまな苦しみ一切を忘れさせてくれたことでしょう。更に、これからローマまでの緊張した旅路を前にして、何よりも心の準備となり、霊的にも力づけられたに違いありません。「こうして、わたしたちはローマについた」(14節)というルカの言葉が、彼らの思いのすべてを物語っています。


 信仰の仲間との出会いはパウロにとっても、また教会のメンバーにとってもお互いに、どんなに慰められたことでしょう。もう一つ、パウロは自分をこのように温かく歓迎してくれる兄弟たちを見て、「神に感謝し、勇気付けられた」と書いています。実際、彼らと出会うまで、パウロの心は少し不安でした。これから先自分を待ち受けているものが何なのか、全く予測がつきません。かつてパウロはローマに宛てた手紙の中で、「そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。」(ローマ15:29)と書き送ったことがありますが、今、パウロの心の内は正直言って、全くその反対です。あふれるほどの祝福を受けたのはパウロの方です。不安な材料が山ほどある中で、ローマの信徒達がこれほどまでに愛を注いでくれたのですから、「神に感謝」せずにいられませんし、これから先、何があっても主が共にいてくださると言う信仰、この後皇帝の前に引き出されたときにも、これまでのように、しっかりとイエス・キリストの福音を証しようと、「勇気づけられ」たのです。

 キリストを主と告白し、教会の頭と仰ぐ信仰の交わりは、不思議な愛に溢れています。パウロはまだ見ぬローマとそこに住む人々のために心血を注ぎ、さまざまな困難を乗り越えてひたすら前進を続けました。この町の人々がイエス・キリストによる救いに導かれ、ローマ教会の信徒たちの信仰を励まし、更に豊かに成長させるためです。いえ、この信徒たちの中には既に主を愛し、パウロを愛し、お互いを愛する愛で満ちていました。彼らはパウロと言う伝道者を慕い、じっと待ちきれずに80km、55kmの道をものともせず迎えに来てくれたのです。この愛と熱心が、パウロに新たな勇気を与えることとなったのです。

「人は心に自分の道を考え計る。しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9。口語訳聖書)
これが2008年度のために教会に与えられた年間聖句です。これを他の訳の聖書で読むと、
「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(新共同訳聖書)
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(新改訳聖書)
「人は心におのれの途(みち)を考えはかる。されどその歩履(あゆみ)を導くものはエホバなり。」(文語訳聖書)


それ以外の訳の聖書も、人の計画と主の導きの間に、「しかし」という接続詞が明記されています。或いは「しかし」に代えて、「人間の計画よりも、それを確かなものとするのは主である」というように、「・・よりも」という単語で対比されています。

 愛する兄弟姉妹、皆さんは新しい年度もまたこの社会の一員として、新たな意欲に燃えて、さまざまな計画をお持ちになることでしょう。しかし、これだけは常に心に留めておいて頂きたいのですが、その計画を御心に適って清め、祝福の内に導き、最終的にことをなしてくださる方は他の誰でもない、主ご自身であるということを。あなたの生活の中にスーパーマンは不要です。互いに主にある愛で結ばれ、信仰による祈りで一つにされている限り、そして隣人のためにという魂への情熱がある限り、あなたの人生は必ず祝福されるのです。なぜなら、神は無から有を創造することのできる方だからです。不可能を可能におできになるからです。

祈りましょう。

天の父なる神さま。御名を崇め讃美します。
今日も豊かな命の御言を、またあなたからのメッセージを戴くことが許されて有難うございました。
使徒パウロがエルサレムで逮捕され、カイサリアからローマへと護送されることになりました。それは海路2,700Km、陸路180Kmに及んで、おおよそ一年を要する厳しくも苦しい旅でした。確かにパウロ自身が常々私たちに警告していますように、主の弟子の御国に至る旅路は、心身ともに苦難を避けては通れないものですが、パウロは身をもってそれを証してくれました。しかし、わたしたちはこの聖書箇所を通して、誠実に主のご命令に従う者には、苦しみばかりでなく、思わぬ方法で慰めと希望、そして勇気を与えてくださることも学ばせて頂くことができました。
主なる神さま、どうかこのメッセージに触れた一人一人を互いにパウロとローマの教会の間柄のように、主にある聖い愛で包んであげてください。新しい年度のためにあなたがお示しくださった箴言の御言に従って、あなたの導きのままに前進させてあげてくださいますように、
救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。


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