【主日礼拝メッセージの要約】                                 2008年39

「 新 し い 一 歩」 

 
ルカによる福音書19章1−10節

 

高橋淑郎牧師

 主エス・キリストは、エリコの町で出迎えた大勢の善男善女の家ではなく、その町で最も嫌われていた「罪深い男」の家を選んで、宿としてくださいました。ザアカイこそ失われた者だからです。ザアカイは自分の進むべき人生の道を見失っていました。我を忘れて欲に走り、我を忘れて罪の坂道を転げ落ちていました。その結果、周りの人々からも、その存在を認めてもらえず、見失われていたのです。だからこそ、主イエスは「ぜひ、あなたの家に泊まりたい」と捜し出して下さいました。主がザアカイの門口に立たれた時、彼もまた固く閉ざしていた心の扉を開き、自分を洗いざらい告白して救いを求めました。ここから本当の意味でザアカイの人生の「新しい一歩」が始まりました。
神は、人が犯した罪はどんな罪でも赦すと言ってくださいます。但し、それには二つの条件があります。
一つは、あなたがあなた自身に対して正直になることです。神を信じてやろうなどという思い上がりを捨てて、むしろ、自分は神を信じる資格のない者、「罪深い者」と認めて告白することです。


 もう一つの条件は何でしょうか。罪は神とわたしの関係だけではないはずです。人と人との和解が求められていることを忘れてはなりません。被害者のもとへ行って、きちんと言葉でお詫びをし、必要ならそれなりの償いが必要です。その罪を良い加減にしたまま、この世の生を終えてしまったら、今度は神の審きが待っています。
ザアカイは神の訪れによって罪に目覚めたとき、人に対する償いの必要を示され、それを実行しました。その時、主は、「今日、救いがこの家を訪れた。」と宣言してくださいました。
愛する兄弟姉妹。あなたはどうしますか。

 

福音メッセージ一覧

戻る


【主日礼拝メッセージ】                                             2008年39

新 し い 一 歩」 

 
ルカによる福音書19章1−10節

高橋淑郎牧師

 

 ザアカイと言う名前はギリシャ風の発音で、本当はヘブル語の綴りに従って読むと、「ザッカイオス」という名前です。「純潔」という意味です。とてもよい名前ですよね。ところがユダヤ人社会の間では、「罪深い男」と呼ばれていました(7節)。誰からもまともに「ザアカイ」とか、「ザッカイオス」とは呼んでもらえません。同じユダヤ人なのに、どうしてこんな呼ばれ方をすることになってしまったのでしょうか。彼が一体どんな悪いことをしたというのでしょうか。「徴税人の頭」だったからです。


 当時ローマから派遣された総督は、ローマ人に徴税させると、誇り高いユダヤ人の反感を招き、要らざる摩擦の原因になりますから、ユダヤ人の中から雇い入れて、彼らに徴税の代行をさせました。その為彼らは、ローマ人から蔑まれ、ユダヤ人からはローマの犬に成り下がった者とか、裏切り者と軽蔑されていました。それでもこの仕事に携わるユダヤ人が絶えなかったのは、貧しい生活から抜け出すためでした。やってみるとそれなりの実入りがあります。特に、ザアカイが住んでいたこのエリコの町は、古くから東西の重要な通商路でしたから、交易の町として栄えていました。ローマ政府にとってドル箱です。住民から取り立てる人頭税の外に、商人からは通行税のほかに、商品に関税をかけます。関税を引き上げると、商人はその分を売値でカバーします。物価の高騰は更なるインフレを招き、住民の生活はますます苦しくなります。


 今日(こんにち)の税務署職員の方々は定められた法律に基いて徴税していますが、ザカリアが活動していた頃の徴税人たちは、決まった以上の税を上乗せして取り立てることもできましたから、やりようによってはまさに濡れ手に泡です。この町に徴税人が何人いたか分かりませんが、ザアカイはその頭ですから、黙っていてもお金が転がり込んできます。金持ちであったというのもうなずけます。つまり彼は自分の手を汚さずに配下の徴税人たちの罪に加担していたことになるわけです。同胞ユダヤ人から、「罪深い男」と呼ばれても仕方ありません。
そんなある日、この町にイエス・キリストがやってこられるというニュースがザアカイの耳にも入ってきました。既にイエスは時の人となっていました。町中が歓迎ムード一色です。沿道は既に黒山の人だかりで、身動きもできないほどです。上を下への大騒ぎにザアカイは、いったいイエスとはどういう人だろうか、と好奇心をそそられて道端に出ましたが、一足遅かったのです。沿道は人また人でごった返している上に、背の低いザアカイではひしめく人々の後ろから飛び上がって見たところで、一瞬でもイエスの姿を認めることはできそうにありません。しかし、幸いイエスが通りそうなはるか先に、一本の無花果桑の木が生えています。彼はそれへ向けて走って行き、大急ぎで枝から枝へとよじ登りました。
無花果桑というのは、その名の通り、木は桑の木に似ていて、実はイチジクに似ているところからつけられた名前です。樹高10−13m、枝の広がりは直径40mにもなる常緑樹で、葉っぱは円形というよりも、どちらかいうとハート型です。実は無花果に似ていますが、木のあらゆる部分、たとえば古い枝にも若い枝にも、時には幹にでも房状につきます。味は無花果には及びませんが、貧しい人には手頃な食料品であると言われています。枝は低いところから広がっているので、登りやすいのです。(「聖書植物考」=別所梅之助著、「新聖書大辞典」無花果桑の項=馬場嘉市)


 先回りして木の枝から見下ろしていると、そこへイエスが通りかかられました。二人の目と目が合いました。すると、イエスの方から口を開いて、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と話しかけて下さったではありませんか。これまで、仕事仲間は別として、まともにザアカイの名を呼んでくれた人、話しかけてくれた人が何人いたでしょうか。ましてや彼の家の敷居をまたぐ訪問者が何人いたでしょうか。恐らくゼロに近かったでしょう。ザアカイは感激し、歓んでイエスを家に招き入れました。
この様子を見て、人々は、イエスに対して非難を浴びせます。「あの人は」と、ザアカイだけではなく、今度はイエスの名前もまともに呼びません。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」。これまでの歓迎ムードは一変して、凍りつくような反応です。


 しかし、ザアカイ自身は、周りの突き刺すような視線と言葉をきちんと受け止めました。罪にまみれた自分の家に、罪を知らない清いお方が宿をとってくださる。「人が自分を、『罪深い男』と呼ぶのはもっともである。その通り、自分は罪びとに違いないのだ。」と、彼は彼自身の中で自らを「罪びと」と認めました。人がそう言ったからではなく、イエスの訪問が、彼の背中に罪の重荷をずしんと感じさせたのです。「自分の過去の生き方は、貧しい人を苦しめるばかりのものであった」と気がつきました。全財産の四分の一とか、三分の一ではなく、自分自身にそれ以上のペナルティを課して、「財産の半分を救済事業に寄付します。」と約束しました。それだけではありません。「また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」と、新たな約束を加えました。確かにザアカイ自身は、住民や交易商人から税を騙し取っていません。それをしたのは配下の徴税人です。しかし、彼は、「下の者が勝手にやったことで、わたしは知りません。」と、トカゲの尻尾きりのようなことはしません。その上で、頭としての自分が不正に徴収した額を4倍にしてお返ししますと約束しました。4倍という数字の根拠は何でしょう。実はこのような不正に対する賠償の割合は旧約聖書の律法に定められています(出エジプト記21:37、民数記5:7)。ザアカイはこの規定を知っていましたから、「4倍にして償います。」と主に告白しました。レビ記や民数記には2倍とか、1.2倍など犯した罪の度合いによって保障の割合はいろいろですが、ザアカイはあえて自分にとって最も厳しい処置を選んだのです。


 もちろん犯した罪を償いたくても償えない人もいます。神はできない人にそれを求めるような方ではありません。その人には別の道を示してくださいます。しかし、ザアカイにはそうする力がありました。人に対して犯した罪は罪で、きちんと償う必要があります。イエスは、ザアカイのこの真摯な悔い改めを聴いて、「今日救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」と赦罪の宣言をしてくださいました。「アブラハムの子」とは、神の契約の民に加えられる権利のある人という意味です。

ここで、皆さんにお考えいただきたいことがあります。
主イエス・キリストは、エリコの町で彼を出迎えた大勢の善男善女の家ではなく、その町で最も嫌われていた「罪深い男」の家を選んで、宿としてくださいました。ザアカイこそ失われていた者だからです。ザアカイのような人は自分の進むべき人生の道を見失っていました。我を忘れて欲に走り、我を忘れて罪の坂道を転げ落ちようとしていました。その結果、周りの人々からも、その存在を認めてもらえず、見失われていたのです。だから、イエスは、「ぜひ、あなたの家に泊まりたい」と捜し出してくださいました。イエス・キリストが彼の門口に立たれたとき、ザアカイもまた、固く閉ざしていた心の扉を開き、自分を洗いざらい告白して、救いを求めました。ここから本当の意味でザアカイの人生の「新しい一歩」が始まりました。
初めに言いましたように、エリコは東西の通商路でした。ここにはいろいろな人種が入り混じり、さまざまな文化が入り乱れていました。この町はまた善男善女の仮面を付けた多くの人々が、己の欲望のままに生きる罪の坩堝(るつぼ)でもあったのです。そのような所を主イエスもまた通過されます。それはザアカイのような人を捜し出して救うためです。このような人々の罪を、ご自身の身をもって償いの供え物として捧げるために、ここを通過してこれから先、十字架への道を歩んでくださるのです。
神は、人が神に犯した罪はどんな罪でも赦すと言ってくださいます。但し、それには二つの条件があります。
一つは、何よりもあなたがあなた自身に対して正直になることです。神を信じてやろうなどという思い上がりを捨てて、むしろ、自分は神を信じる資格のない者、「罪深い者」と認めて、ありのままを告白することです。


 もう一つの条件は何でしょうか。罪は神とわたしの関係だけではないはずです。人と人との和解が求められていることを忘れてはなりません。被害者のもとへ行って、きちんと言葉でお詫びをし、必要ならそれなりの償いが必要です。その罪を良い加減にしたまま、この世の生を終えてしまったら、今度は神のみ前での審きが待っています。
ザアカイは神の訪れによって罪に目覚めたとき、人に対する償いの必要を示され、それを実行しました。その時、主は、「今日、救いがこの家を訪れた。」と宣言してくださいました。
愛する兄弟姉妹。あなたはどうしますか。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
何という憐れみに満ちたお言葉でしょう。何という恵み深いお言葉でしょう。感謝します。
 あなたは善男善女ではなく、ザアカイのように自分を見失った人生、人々に憎まれ、嫌われながら、孤独に生きる罪深い人をあえて捜して、罪の自覚と救いを求める悔い改めに導いてくださいました。しかし、救いを必要としているのは、ザアカイのような人だけではありません。むしろ、善男善女の仮面をかぶり、自分を隠し、自分を見失って隠れた罪を犯す人々もまた、悔い改めが必要です。救われなければなりません。主よ、今ここにいる人々の中にそのような人がいましたら、どうか、その心の戸を開いて、今すぐに悔改めることができますように、救い主イエス・キリストを受け入れる信仰を与えてください。
主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン。


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む