【主日礼拝メッセージの要約】                                 2008年316

「ロバに揺られて」 

 
ヨハネによる福音書12章12−16節

 

高橋淑郎牧師

 エルサレムは「神の平和の都」という意味ですが、キリスト降誕以前から、歴史上この都ほど血塗られた歴史を持つ都はありません。現にイエス・キリストがろばの子に揺られて入城されたエルサレムの都は欺瞞と汚れと争いに満ちていました。聖き神の御子を迎えるに相応しくありませんでした。主イエスはまもなく罪に満ちた人々の手で、この都の郊外に追いやられて十字架という非業の死を遂げられます。しかし、これこそ「栄光の座」であったと著者ヨハネは証言します。イエスはあの十字架上で、息を引き取る直前に、「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19:30)と宣言なさったというではありませんか。御自分の死が全世界の罪を贖い取る、最も確かな保証であると言われたのです。
聖書に、「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(コリントの信徒への手紙二5:19-20)とあります。


 主イエスは神に逆らう者と戦い、その罪を裁くために、軍馬でエルサレムの都に入って来られたのではありません。ろばの子を選び、その背に揺られて入城なさったのです。ろばは兵士を乗せるためではなく、荷を運ぶ生き物です。ろばの背に揺られながらエルサレムに入城なさった主イエスは子ロバのように、わたしたちの神への不信という罪の重荷を一身に担って下さったのです。十字架にはそのような意味があることを、ぜひとも心に留めて、今一人ひとり、その罪を悔改めてイエス・キリストを救い主と信じ受け入れることをお勧めします。

 

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【主日礼拝メッセージ】                                       2008年316

「ロバに揺られて」 

 
ヨハネによる福音書12章12−16節

高橋淑郎牧師

  私たちの主イエス・キリストは、今、ロバに揺られて入城して来られます。その時、ちょうど過越の祭りを祝うために都に来ていた多くの人々は、この方を喜び迎えました。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
「ホサナ」とは、文字通りには、「主よ、憐れみ給え」、或いは「主よ、救いたまえ」という意味ですが、この世を真に平和に導き、人々を救うことのできる方はイエス・キリストをおいて他にないという祈りと讃美が込められています。この出来事についてはマタイ、マルコ、ルカなど他の福音書著者たちも、それぞれ詳しく書いていますが、この時群衆が手にしていたものが何であったかまでは余り関心がなかったようで、マタイはただ「木の枝」、マルコは、「葉のついた枝」としか書いていませんし、ルカにいたっては全く触れていません。彼らはロバの子に乗るイエス・キリストに注目していたようで、それぞれ特徴のある書き方をしています。しかし、ヨハネだけは、人々がイエス・キリストを歓迎するために手にしていたものを注意深く観察していたようです。群衆はナツメヤシの枝を持って主イエスを出迎えました。「ナツメヤシ」とは、かたちはヤシの木に似ており、果実はナツメのような形をしているところから付けられたと言われています。


 余談になりますが、この木をギリシャ語読みで「フォイニクス」(φοινιξ)と発音するところから、現在のレバノン共和国を昔はフェニキアと呼んでいました。この木がフェニキアに多く見られたからだということです。
ヨハネは、この後主イエスが処刑された十字架刑は、もともとフェニキア人が考案したということを重ね合わせて、この木に注目したのでしょうか。それとももっと単純にこの木の実が好きだったからでしょうか。いろいろ想像できますが、ヨハネがこの木の枝に注目した理由として、確実に言えることがあります。この時、ヨハネは一つの御言を意識していたからではないでしょうか。レビ記23:39−40(p.200)がそれです。ご一緒に開いてみてください。
「なお第七の月の15日、あなたたちが農作物を収穫するときは、七日の間、主の祭りを祝いなさい。初日にも八日目にも安息の日を守りなさい。初日には立派な木の実、ナツメヤシの葉、茂った木の枝、川柳(かわやなぎ)の枝を取って来て、あなたたちの神、主のみ前に七日の間、喜び祝う。」とあります。
今、ヨハネは人々がナツメヤシの木の枝を取って来て主イエスを喜び迎えている光景を目の前にして、旧約聖書のレビ記に預言されていることがまさに目の前で成就していることに驚き、目を見張ったのです。そして、ロバの子に揺られて「神の平和」と呼ばれるエルサレムの城門を入って行かれるこの方こそ、真に諸王の王、キリスト、神の御子であるとの確信を深くしたことでしょう。そうでなければ、わざわざ人々が手にしているナツメヤシの枝に注目することはなかったはずです。更にこの確信は、今主イエスを喜び迎えている人々が、いや、もっと多くの人々が、やがて終りの日に天の御国において、この方を喜び祝い、讃美するという、素晴しい幻を与えられたのです(ヨハネの黙示録7:9−10(p.460)。この聖句も皆さんと一緒に見てみましょう。


 「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手にナツメヤシの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」
ヨハネの福音書に戻って、もう少し先を読んで見ましょう。マタイ、マルコ、ルカによる福音書などによると、イエスはエルサレムに入城される前に、既にロバの子に乗ってこられたと証言しています。しかし、ヨハネはあえてこのことについては、14節で初めて触れています。それは、先ほども言いましたが、ヨハネはナツメヤシの枝の意味を私たちに教えておきたかったからでしょう。


そして、いよいよロバの子にまたがって城門を入って行くイエスに注目します。
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ロバの子に乗って。」
これは旧約聖書ゼカリヤ書9:9(p.1489)に預言されていたことです。折角ですから、この預言の言葉を皆さんと一緒にその先の10節まで開いて読んでみましょう。
「娘、シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。神の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」


 しかし、ヨハネは正直です。自分を筆頭に、イエスの側近と呼ばれた12弟子もこの時は、自分たちの主であるイエス・キリストがろばの子に乗ってエルサレムに入城なさることにどんな意味があるのかよく分かっていなかったようです。しかし、後で分かるようになったとも言っています。それは、「イエスが栄光を受けられたとき」であったと言うのです。「栄光を受ける」とはどういう意味でしょうか。24節をごらんください。イエスが、「一粒の麦」として地に落ちて死ぬときです。イエスが十字架の上に死んで葬られたとき、いや、もっと正確には三日目に復活して弟子たちの前に御自分を顕現して下さった時のことを指します。
イエスがろばの子に揺られて入城された都の名はエルサレムでした。エルサレムとは「神の平和の都」という意味です。しかし、イエス・キリスト以前もそうですが、今日21世紀に至ってなお、この都はその名に相応しい平和の都であったことはほとんどありませんでした。歴史上、この都ほど血塗られて歴史を持つ都はありません。恐らく世の終りまで争い続けるでしょう。現にイエス・キリストがろばの子に揺られて入城されたエルサレムの都は欺瞞と汚れと争いに満ちていました。全く聖き神の御子を迎えるに相応しくありませんでした。しかし、イエスはあえてこの都を選ばれました。この都に住む人々を、真にエルサレムの名に恥じない者とならせるためです。イエス・キリストはまもなく罪に満ちた人々の手で、この都の郊外に追いやられて十字架という非業の死を遂げられます。しかし、これこそ栄光の座であったとヨハネは証言しています。あの十字架のうえで、イエスは息を引き取る直前に、「すべてが成就した」と宣言なさったというではありませんか。御自分の死が全世界の罪を贖い取る、最も確かな保証であるといわれたのです。
聖書は言います。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリスト・イエスの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(コリントの信徒への手紙二5:19−20)と。


 メッセージを閉じるにあたってもう一言お伝えします。イエス・キリストは神に逆らう者と戦い、その罪を裁くために、軍馬でエルサレムの都に入って来られたのではありません。神の和解のしるしとしてロバを、しかも、ろばの子を選び、その背に揺られて入城なさったのです。ろばは兵士を乗せるための生き物ではありません。荷を運ぶための生き物です。あの日、ろばの背に揺られながらエルサレムに入城なさった主イエスは神の御子でありながら、子ロバのように、神と不毛の戦いを続けるわたしたちの偽りと傲慢と神への不信という罪の重荷を一身に担ってくださったのです。十字架にはそのような意味があることを、ぜひとも心に留めて、今一人一人、その罪を悔改めてイエス・キリストを救い主と信じ受け入れることをお勧めします。 祈りましょう。


天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
今朝は、あなたの御子であり、わたしたちの主イエスの受難週を心に留めて礼拝をささげております。
主は、あの子ロバの背に揺られてエルサレムの都に入城なさいました。「神の平和の都」と呼ばれるに値しない、罪に汚れたあの門をあえてくぐり、そこを真にエルサレムとして清めるためでした。それがあなたのみ心だったからです。あの日曜日から数えて6日目、平和の主であるイエス・キリストは、都の郊外に引き出されて重い十字架を背負い、ゴルゴタの丘へと続く悲しみの道を歩まれました。
正直なところ、わたしたちの心そのものが名ばかりのエルサレム、欺瞞と汚れに満ちたものでした。それなのに感謝します。主イエスはこのわたしの心にも、あなたの和解を受けることができる道を開いてくださいました。主がわたしたちの心の中にも平和の王として入城してくださったからです。
わたしたちは今、主イエスをわたしたちの王、平和の主として信じ受け入れ、生涯あなたに従ってまいります。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

 


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