【主日礼拝メッセージの要約】                                 2008年420

「愛 し 抜 く」 

ヨハネによる福音書13章1−20節

 

高橋淑郎牧師

 弟子たちは食事の部屋に入りました。 当時、客人はまず自分たちの汚れた足を奴隷に洗ってもらってから席に着くことになっていました。しかし、それらしい人はいません。彼らは仕方なく席に着きました。やがて、いろいろお喋りをしているうちに、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかという話題になりました。主イエスは苦々しい思いで、彼らの会話を聞いておられたことでしょう。日頃はイエスを「先生」とか、「主よ」と呼んでいながら、彼らの内、誰一人率先して主イエスの足を洗う者はいません。勿論仲間の足を洗う人もいません。


 主イエスが目の前におられてさえこれです。主が十字架に付けられ、彼らの肉の目から見えなくなってしまったら、この集団はどうなるだろうか、と心痛めた主は、彼らに、
「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。・・・」(ルカによる福音書22:24−26)と言いながら、「立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、それからたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(4−5節)


 主イエスはこのようにして、弟子たちをどれほど愛しているかを知らせるために、まず御自分の方から進んで弟子たちの僕(しもべ)のようになりました。そして、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」と言われました。主の愛は上から下への方法ではなく、むしろその反対でした。わたしたちも互いに自分を高く置くのではなく、仕える姿勢で愛し合いましょう。

 

福音メッセージ一覧

戻る


【主日礼拝メッセージ】                                        2008年420

「愛 し 抜 く」 

ヨハネによる福音書13章1−20節

高橋淑郎牧師

 安息日の始まる木曜日の日没後、過越の祭りが始まりました。この夜はユダヤ人にとって、特に記念すべき「過越の食事」を戴く日ですが、主イエスと弟子たちが、地上で共にする最後の晩餐です。しかし、主は、「これから後も、ご自身を記念して行いなさい。」とお命じになりました。それで、使徒パウロはこれを「主の晩餐」と名づけました(コリントの信徒への手紙一11:20)。主イエス・キリストが主宰なさった食事だからです。この食事の由来と意義については、以前この礼拝の中でもお話しましたが、いずれ新しい牧師が与えられたら、その方を通して更に詳しく学ぶ機会が与えられるでしょうから、今日はこの食事の席で何が起こったかということについてお伝えさせていただきます。
弟子たちは食卓の整えられた、この部屋にぞろぞろと入ってきました。当時、客人はまず自分たちの汚れた足を奴隷に洗って貰ってから席に着くことになっていました。しかし、この部屋に奴隷は誰もいません。彼らは仕方なくそのまま席に着きました。やがて、いろいろお喋りをしているうちに、彼らは自分たちの中で一番偉いのは誰かと話し始めました(ルカによる福音書22:24−30)。きっと主イエスは苦々しい思いで、彼らの会話を聞いておられたことでしょう。日頃はイエスを「先生」とか、「主よ」と呼んでいながら、彼らの内、誰一人率先して主イエスの足を洗う者はいません。勿論仲間の足を洗う人もいません。


 主イエスが目の前におられてさえこれです。主が十字架に付けられ、彼らの肉の目から見えなくなってしまったら、この集団はどうなるだろうか、非常に心痛めた主は、彼らに言われました。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。・・・」(ルカによる福音書22:24−26)と、そう言いながら、主は、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、それからたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(4−5節)
この厳粛で、しかも恵みに満ちた食事の時、主イエスは、ご自分が天の父のもとに帰って行った後、残される弟子たちが出世争いに血道をあげるのではなく、互いに仕え合い、愛し合う者となるようにと模範を示されたのです。


 最初、弟子たちはその意味が分からず、ただ眺めていたことでしょう。しかし、ペトロは他の弟子たちの気持ちを代弁するかのように、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。」、と驚きをもって尋ねました。主は答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と言われました。文語訳聖書では、「かくてシモン・ペテロに至り給えば、彼いふ『主よ、汝わが足を洗い給ふか』 イエス答えて言ひ給ふ『わが為すことを汝いまは知らず、後に悟るべし』」(6−7節)と訳されています。
少し脱線しますが、わたしたちキリスト者にとって、この御言葉は日常生活の基本です。先週、わたしたちは箴言16:9から、教会として、また個人の信仰生活のために、いろいろな計画が頭をよぎっても、主なる神の導きこそ最も安全で、しかも祝福の道であると学びました。その道は、時に自分の意に沿わない場合もあります。そうした時、わたしたちは自分の思い通りの道をどうしても選びたくて、安易に、「わたしはこのように主に示されました。」と口にすることがあります。だが、これほど危険な選択はありません。主が明確に示しておられないのに、主の権威を利用して、主が言ってもいないことを口にすることは、祝福どころか、取り返しがつかない人生の挫折、失敗に終わることでしょう。どこをどう進めば良いのか分からなければ、主の導きを祈りながら待つことです。そしてたとい自分の意に沿わない道を示される場合にも、「わが為すことを汝今は知らず、後に悟るべし」、このお言葉を信じて、とにかく従うところに祝福があります。
 話を元に戻しましょう。主イエスから、「後で分かるようになる」という御言葉を受けたとき、ペトロはますます恐れて、「決して洗わないでください。」、と辞退しました。この「決して」とは、「永久に(αιωνα。アイオーナ)」という強い意味のギリシャ語が用いられています。「わたしの足など、未来永劫洗わないでください。」と足を引っ込めかけたのです。しかし主が、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われたとき、彼は「主よ、では、足だけではなく、どうぞ手も頭も。」(口語訳聖書)とおねだりしました。ペトロは本当に大胆な発言を次から次にできる人です。それにしても、なぜこんな思い切ったことを彼は言ったのでしょう。主イエスが、「何の関係もなくなる」と言われたからです。これを直訳すると、「もし、あなたの足を洗わないなら、あなたはわたしの一部分ではなくなる」ということになります。これは大変です。ペトロにとって、イエスは全てのすべてです。イエス抜きの人生は考えられないのです。ある詩編の作者が、「地上であなたを愛していなければ 天で誰がわたしを助けてくれようか。」(詩編73:25)と祈りましたが、ペトロの心も全く同じでした。彼は主イエスを愛していましたから、誰に見捨てられるよりも、主イエスのものでなくなってしまったら、この先どうして生きていけるだろうか、天の国籍を失って、わたしの死後はどうなるのか、それで、「主よ、足だけでなく、手も頭も。」という願いになったのです。しかし、主は「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と、彼を受け入れて下さいました。「あなたがわたしの全てです。」という思いから出たこの願いこそ、主イエスの弟子告白と認められたのです。外の弟子たちも同じでした。
しかし、一人だけ例外がいました。イスカリオテのユダです。彼の心はサタンの支配されて、今や、主イエスの言葉を受け入れる僅かな隙間さえなくなっていました。18節は詩編41:10からの引用なので、そのまま読みましょう。「わたしに信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足げにします。」と。日本流にいうと、ユダは後足で主イエスに砂をかけるようにして、その場を出て行ってしまうのです。


 しかし何ということでしょう、そうなるであろうことを何もかも知り尽くしながら、わたしたちをこの上なく愛してくださったイエスはユダの足をも洗ってくださいました。そして、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。・・・事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(12−15,19−20節)と。


 この二つの御言葉から、主イエスが、どれほどの愛で、弟子たちを、そしてわたしたちすべての罪びとを受け入れてくださっているかを学ぶことができます。ひとつは、主イエスの模範です。神の御子でありながら、僕の姿をとり、弟子たちの足をも洗ってくださいました。それによって、わたしたちも主の愛で、互いに仕え合う者とされるのです。
もう一つ、主イエスの洗足奉仕は、十字架を抜きにしては、本当の意味で理解できないということです。十字架こそ、わたしたちすべての罪びとに対する大いなる洗足であり、聖なる愛のご奉仕です。「この上なく愛し抜かれた」というに相応しい究極のご奉仕です。「事が起こる」とか、「事が起こった」とかは、十字架の出来事をさしていることが明白だからです。汚れた弟子の足を、わたしたちすべての罪と汚れを洗い清めるために、ご自身の尊い血を流して下さったのです。イエスはあの十字架の上から、「わたしはある」と宣言しておられます。ここでいう「ある」とはヘブライ語で、「ヤハウェ」という意味です。直訳すると、「有って在る者」、すなわち「主」という意味です(出エジプト記3:14)。


 わたしたちは、この神の為に何ができるでしょうか。何もできません。できないのです。わたしたちは、ただ弟子の足を洗ってくださった主イエスの御前に、十字架という清めのご奉仕を感謝して受けるばかりの者なのです。わたしたちがこの方の為に何かできるとするなら、それは、目に見える兄弟姉妹の足を洗う心で、隣人に仕えることです。
愛する仙川キリスト教会の皆さん、次週は2008年度定期総会です。その席上、決して自分たちの中で、誰が一番偉いのか、というようなことを心においても言葉によっても、話題にしないでください。むしろ、主イエスの模範に倣って互いの足を洗い合うとき、主の僕として、主に仕える道を祈り求める、清められた関係造りの場として用いてください。
皆さんの上に、神の祝福が豊かであることを祈って止みません。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
 あなたの御子イエス・キリストは、わたしたちの傲慢を打ち砕くために、自ら低くなって弟子の足を洗ってくださいました。しかも、御子イエス・キリストは、十字架の上に、わたしたちの罪を贖いとってくださいました。それゆえに、この方こそ、「わたしはある」と宣言なさるにふさわしいヤハウェです。主です。
どうか、仙川キリスト教会の全ての人が主の模範に倣う者、いついかなる時にも、イエス・キリストのみを「主」と告白する、清められた共同体として祝福して下さることを、
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む