【主日礼拝・メッセージの 要 約】                                 2008年8月17日 

自然における神の御業 」 

 
詩編104編

 

吉野輝雄兄

 

 神を信じる信仰と自然科学とが矛盾しないのか、と時々質問されることがある。私は、それに対して「矛盾しないどころか、天地創造の神を 信じることによって自然科学という人間の知的営みが健全となり、自然の驚異と奥深さ、恵みを知ることができる」と答えている。詩編104編を読むと、現代 科学の知識がなかった旧約時代のヘブル人も自然の力、恵み、変化をよく見ていたことが分かる。科学・技術が発達し、その成果に囲まれて生活している現代人 とどこが違うのか、変わらないところはどこかを考えてみたい。


 創世記に述べられているように詩編104編には、まず光と水、地と火のことが書かれている。それに続いて山、川、海、動物たちの動きが生き生きと記さ れ、人間も天地創造の神の恵みに生かされている幸いが証しされている。なんと豊かな自然観か。子どものような無垢な心を持ち、新鮮な視点と驚きで自然を見 ている。そこには、現代科学の基本である “すごい、不思議!” “なぜ?”という思いがある。その思いが、神の偉大と御業に感動し、ハレルヤと神をほめ讃える証となっているのである。


 「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)は、その思いをもって自然のしくみをもっと深く知りたいという自然科学の原点である、と私は信じている。 自然科学の知識が蓄積され、改めて自然を見直すと人も動植物も地(主の恵みの御業)に生かされていることが分かってくる。神不在の自然観ではなく、神の御 業に感謝しつつ自然を探究できるのは何と幸いなことか。


 私は、これまで20数年間、大学生たちに水という神が創られた賜物が地球環境を支え、生命発生の源となり、今もすべての生命にとって無くてはならないも のであることを語ってきた。そこで伝えようとしてきたメッセージの核心は詩編104編と115編に表されている。「地はお造りになったもので満ちている」 (詩編104:24)、「天は主のもの、地は人への賜物」(詩編115:16)。

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【主 日礼拝・メッセージ】                                         2008 年8月17日 

自然における神の御業 」 

 
詩編104編

 

吉野輝雄兄

  1. はじめに

 猛暑が続いていますが、海や山に出かけることが多い夏は自然を最も身近に感じる季節ではないかと思います。しかし、別に遠くに出かけな くとも日常生活の中で身近な川や草花、そして、灼熱の太陽と白い雲が浮かぶ青空に目を向ければ、そこに自然があります。朝起きて水で顔を洗い、食事をする こと、身体を動かして歩き始める行為そのものも自然の営みです。そのように言えるワケは、後の方で解き明かすことにして、今朝は、しばらく自然と信仰との 関わりについて考えてみましょう。もっと具体的に言いますと、「自然における神の御業」について聖書と自然科学の研究教育に長年携わってきた小さな経験を 通して皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

 

2. 信仰と自然科学

 自然と人との関わりを礼拝メッセージとして聞く機会はあまり多くないと思います。(いつもの礼拝メッセージでは人と人、人間社会におけ る人のあり方、人と神さまとの関係がテーマ)。しかし、ご存知のように、聖書は創世記から始まっています。この世界がいつどのようにして生まれたのか?光 と水はどのようにして出来たのか?多様な植物、動物はどのようにして地上に現れたのか?そして、人間はいつどのように生まれたのか、といった人間の根源的 な問いに対する説明から聖書が書き始められていることを考えると、礼拝の中でもっと自然がテーマとなってもよいと思いませんか?
 多くの現代人は、自然のことをきちんと取り扱い理解するのは、宗教(信仰)ではなく理科、自然科学だと考えているようです。自然科学の成立の歴史と方法 論を考えると、一面それは正しいと私も思います。しかし、自然は自然科学が生まれる前から存在し、人間は自然の一部として自然とは何かを理解し、自然との つきあい方を深めたいと考えて来ました。それは、知的好奇心をもつ万人の営みであります。創世記1章は、自分たちを取り囲む自然を理解しようとしたヘブル 人の自然観とも言えます。
 それでは信仰と自然科学はどこが違うのか。これについては様々な見解があり、キリスト教会としての共通見解があるわけではありません。私がどのように考 え信じているかをここで表明させて頂きます(これは、聖書のメッセージではありません。大学生にクラスの中で表明している私見です)。
(クラスの範囲を越えたこととして最後の最後に伝えている)

   聖書の創世記によると、“神は第1日目に光、第2 日目に水、第3日目に植物、第4日目に太陽と星と月を、第4日目に動物、そして第6日目に人間を造られた。      
   神は創造されたすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった”とある。これは、神を信じる者が天地創造の順序(進化)を(科学的にでは なく)

   直感的に言い当てたものである。われわれ人間も地球上で数十億年もの長い期間の進化の過程を経て神によって造られ、この宇宙/自然の中に置かれた存 在である。

 自然科学は、How(「自然法則がいかに成り立ってい るのか」)を究める人間の営みである
  自然科学は神がなぜ存在するのかを問わない(それは信仰の問題だから)。
  自然科学は、普遍的自然法則の内実を物質系、生体系、宇宙の中にさがす営みである。
  科学技術は、その知識体系を利用して新しい化学成品、機械、電機・電子製品等を造る
  営みである。


 信仰は、Why(天地/宇宙が存在する根拠)に対して創造主の存在を認める生き方である。
  初め(根源)があった事、天地を創った創造主の存在を私は信じる。
  すなわち、「初めに神は、天地を支配する自然法則を定められた」「その自然法則
  に従って、 神は天地万物を創造された」と信じるので、自然科学と矛盾しない。
  自然法則は天地創造以来不変だ。もしもそうでなかったならば、自然科学は成り立たな
  い。
  創造主によりこの宇宙の中に置かれた人間は、自然と、他の生物と、人間社会と、また、
  隣人とどのような関わりをもちながら生きるのかを創造主から問われている存在である。

 
 神を信じる信仰と自然科学とが矛盾しないのか、と時々質問されることがあります。私は、上のように考えていますので「矛盾しないどころか、天地創造の神 を信じることによって自然科学という人間の知的営みが健全となり、自然の驚異と奥深さ、恵みを知ることができる」と答えています。

 実際、詩編104編を読むと、現代科学の知識がなかった旧約時代のヘブル人も自然の力、恵み、変化をよく見ていたことが分かります。詩 編104編の記者の信仰と視野の広さ、想像力に感動させられます。
ご一緒に味わってみましょう(自然を表す言葉を○印をつけて読んでみるとよい)。
5つに区切って短い解説をつけます。

(1)1:わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。
   栄えと輝きをまとい
2:光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り
3:天上の宮の梁を水の中にわたされた。雲を御自分のための車とし/風の翼に乗って行き巡り
4:さまざまな風を伝令とし/燃える火を御もとに仕えさせられる。

この詩編の記者は創世記の信仰を引き継いでいることが分かります。光と水、風(空気)と火を創造された神の存在と偉大な創造の業をほめたたえています。

(2)5:主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。
  6:深淵は衣となって地を覆い/水は山々の上にとどまっていたが
  7:あなたが叱咤されると散って行き/とどろく御声に驚いて逃げ去った。
  8:水は山々を上り、谷を下り/あなたが彼らのために設けられた所に向かった。
  9:あなたは境を置き、水に越えることを禁じ/再び地を覆うことを禁じられた。
 10:主は泉を湧き上がらせて川とし/山々の間を流れさせられた。

地とは地球であり、自然のことです。自然を見回すと水は霧となって山々をのぼり、山からわき出た水は谷を下り川となって流れ、湖、池に溜まる、と自然にお ける雄大な水の動きをダイナミックに捉えています。

(3)11:野の獣はその水を飲み/野ろばの渇きも潤される。
 12:水のほとりに空の鳥は住み着き/草木の中から声をあげる。
 13:主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる。
 14:家畜のためには牧草を茂らせ/地から糧を引き出そうと働く人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。
 15:ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える。
 16:主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち
 17:そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。
 18:高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。

水は、地球上の動物たちの喉の渇きを潤し、草木を育てその実を求めて鳥たちが住む。家畜は水によって茂った牧草を食べ、ブドウ酒、オリーブ油、小麦のパン が実りとしてもたらされる。空高く伸びたレバノン杉には鳥たちが巣を作り、糸杉には幸せを運ぶコウノトリが住む。高い山には野山羊の、岩山には岩狸の隠れ 家が用意されている。神は造られたものを恵みの業をもって養い支えて下さっていることを歌っている。

(4)19:主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。
 20:あなたが闇を置かれると夜になり/森の獣は皆、忍び出てくる。
 21:若獅子は餌食を求めてほえ/神に食べ物を求める。
 22:太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き/それぞれのねぐらにうずくまる。
 23:人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。

季節が巡り、昼と夜が交互にやってくる。太陽が沈むと夜がやってくるが、それは恐しく、活動が止んだ闇ではない。ライオンにとっては食物を得る時であり、 人は昼の労働から身体と心を休める恵みの時である。

 24:主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げら れた。地はお造りになったものに満ちている。

ああ、主が造られた自然を見ていると、主の知恵と御業に圧倒される。
天地を創り、一人ひとりを覚え、あらゆる動物、草木にまで心を向けて下さる神の知恵は何と深く、配慮に満ちていることか。神の御業はあまりに多く、数えあ げることができない。

(5)25:同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れな い。
 26:舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
 27:彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
 28:あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
 29:御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。
 30:あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。

神の偉大な御業をまだ数え上げ切れていなかった。広大な海には大小の生き物が住み、
人も海上に船を出して行き交い、豊かな物資の交易が行われている。人々が恐れる海竜も神に造られたものに過ぎず、海で暴れ船人を脅かすことがあるようだ が、実は神の手の中で戯れているのだ。海の生き物たちは、家畜のように世話をされることはないが、海を創られた主なる神は彼らを養っている。仮に息絶えた としても新しい命の息吹をもって再び新たな生命を創造し、地球環境を新しくし、保たれる。

(6)31-35節
 このような主の御業に囲まれながら人生を長らえることは何と幸いなことか、主をほめ歌い、主によって喜び祝おう。心から主をたたえよう、ハレルヤ。
と詩編を締めくくっています。

 

3. 大学生に自然をつくっている水について講義した経験から

 詩編104編でも水の働きと恵みが歌われていますが、自然科学の立場から水を見ると、また違った特性が浮かびあがってきます。
水は、誰もが知っているありふれた物質です。実は、これまで自然界で確認されている100万種以上存在する物質の中で化学的に見ても最もユニークな物質の 一つです。ここはサイエンスの講義ではないので詳しい話はしませんが、氷が水に浮くという性質、水は氷点0℃ではなく4℃で最大密度になるという性質をは じめ、水はH2Oおいう単純な分子でありながら、水には他の物質にはない63ものユニークな性質があるとChaprinという化学者は言っています。この ユニークな性質が地球環境をつくり、生命活動を支えているのです。
 ここで水と人間との関わりにつて少し考えてみましょう。皆さんは、水を使わない生活は一日もないと思います。ヒトの身体の2/3は水で、毎日2.5 Lの水を飲み、同じ量だけ排出しています。実は、毎日その10倍の水が身体を巡り、呼吸、消化、筋肉運動、老廃物の分解、さらには思考、感情といった生命 活動を支えています。ヒトだけでなく地球上の全ての生物は水なしでは生きて行けません。砂漠の砂に埋まっていて小石のように動かないクマムシは、水がなく ても120年も生き、150℃の高温、-200℃の低温に置いておいても死なないという変な生き物ですが、体内に水を含んでいて、雨が降ると動き出しま す。
 なぜ地球上の生物がそれほどまでに水なしでは生きていけないのでしょうか?そのナゾを知るには地球誕生の歴史まで遡らなければなりません。今から46億 年前に地球が誕生し、34億年前に原始の海の中で細胞がつくられ生命が発生したと考えられています。その後、単細胞生物から、多細胞生物、昆虫、魚、サ ル、人類へと進化し、多様な生物が棲む今の地球になったのです。ヒトの身体をつくっている元素を調べると海水の元素組成とよく似ていることに驚かされま す。生命が海の中で発生したことを示す証拠の一つです。水の中で生まれ、水を抱えて生きているヒトをはじめとする生物がなぜ水を必要とするのかという疑問 に対する答えがここにあります。


 
 ところで、皆さんは宇宙から撮影した地球の写真を見たことがありますか。地球を宇宙から見ると、真っ青な表面に白の斑模様のある巨大な球が真っ暗な空間 に浮かんでいる写真です。私は、30数年前にアポロ11号が送って来た地球の写真を見た時の感動を今でも鮮明に覚えています。まるで宝石だと思いました。 青は地表の70%を覆う海、白の斑は空に浮かぶ雲です。
 太陽系の8つの惑星の中で地球のように水を大量にたたえている星は他にはありません。地球よりも太陽に近い水星と金星の表面は200℃以上の灼熱状態で あるため、液体の水は存在しません。地球の外側の火星の平均表面温度は-50℃で、水は氷結しています。木星、土星はさらに低温の星です。ところが地球の 平均温度は15℃、暑い夏でも40℃、寒い真冬でも-30℃以下に下がることはめったにありません。
 水がないところでは生命は発生できず、生きられないという現代科学の知識によれば、地球だけが生命が存在できる特別な星であることになります。しかし、 最近、火星にもかつては水が存在していた可能性があると分かり、生命の痕跡探しが行われていますので、この知識は書き換えられるかも知れません。しかし 今、大量の水が存在し、生命が棲む星は地球だけです。地球は「水と生命の惑星」と言われる理由がここにあります。

 

 初めに読んだ創世記と詩編104編に戻りましょう。旧約のヘブル人は、科学の知識によらず直感によって、地球の特徴を捉え、創世記を書 き、詩編を書いている、と私は学生たちに説明しています。しかし、神の実在と偉大な力を知り信じておられる皆さんには、直感という表現をせず、「創世記 は、生きた主なる神さまの啓示によって目を開かされたヘブル人が信仰告白として書いたものである」と、遠慮なくはっきりと話すことができます。また、詩編 の記者のように人間も他の動植物も天地創造の神の恵みと力によって生かされている幸いを確認し、共に主に感謝することができます。ハレルヤ!

 私が20年間大学生たちに伝えようとしてきたメッセージも今日のメッセ-ジも実は同じなのです。その核心は、箴言1章と詩編104編、 115編に書き表されている通りです。
 
  「主を畏れることは知恵(自然科学)の初め」(箴言1:7)
  「地(球)はお造りになったもので満ちている」(詩編104:24)
  「天は主のもの、地(球環境)は人への賜物」(詩編115:16)

アーメン 

 

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