【主日礼拝・巻頭言】                                 2008年11月2日 

 『勇気を出して』  

 
ヨハネ福音書5:1-9

 

山岸 明牧師

                                                           

 エルサレムにベトザタという池がありました。その池の水が動く時に、一番最初に飛び込んだ人は病が癒されるという言い伝えがあったので、その池の周りに多くの人々が集まり、いつ動くとも分からない池を毎日眺めていたのです。そこに38年間、病気で苦しむ人がいました。彼は毎日この池に来て水の動くのを待ち望んでいました。そして1年が過ぎ10年が過ぎ、とうとう38年という月日が流れてしまいました。イエス様はそんな彼に「良くなりたいか」と言われました。ある意味、この呼びかけは残酷な問であります。38年間癒されたいと願いつつも癒されない、その彼を支える家族を思うと急所をえぐるような問いではないでしょうか。そのイエス様の問いに彼は「主よ水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」と言いました。

 この悲観的な言葉がどれほど彼を絶望の中に置いていたか、イエス様から「良くなりたいか」と聞かれ「ハイ」と答えられない状態、この絶望の中に安住してしまっている姿、イエス様が見出したのはそのような人であったのです。イエス様が問われた「良くないたいか」は真剣に良くなりたいか、救われたいか、新しい命に預かりたいか、という問いであったのです。その彼にイエス様は「起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい。」と言われました。弱い彼には、そんな重荷を背負って歩むことなど出来ません。勇気もないし、自信もない、力もない。しかし、彼は勇気を持ってイエス様の招きに応えました。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」のです。まさに「あなたの信仰があなたを救った」マタイ9:22 のです。

 イエス様の「良くなりたいか」の問いかけは、私たちに信仰による決断を求められているのです。信仰による決断とは、この世のむなしい空回りの人生から神の恵みに心を向けて、その中に飛び込むことを決心する事です。昨日までの過去に悩まされたり、現在の弱さを恐れる事なく、これからの自分の人生を神に委ねる事なのです。 私たちは「起き上がり、床を担いで歩きなさい」の一歩を信じて踏み出すことです。もしかすると恵みの家という教会に何も期待しないで来ているだけではないでしょうか。イエスはそういう人に対して、しっかりと信仰を持って歩きなさいと言われるのです。

 

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 【主日礼拝・メッセージ】                                 2008年11月2日 

 『勇気を出して』  

 
ヨハネ福音書5:1-9

山岸 明牧師


                                                                                                                                                             エ エルサレムにベトザタという池がありました。その池の周りには病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など病を持った人々がいつも横たわっていました。ベトザタとは恵みの家という意味があり、そのべトザタの池の水が動く時に、一番最初に飛び込んだ人は病が癒されるという言い伝えがありました。自分こそは、その恵みに預かりたいという願いを持って、その池の周りに多くの人々が集まり、いつ動くとも分からない池を毎日眺めていたのです。そこに38年間、病気で苦しんでいる人がいました。彼は、来る日も来る日もべトザタの池に来て、水の動くのを待ち望んでいました。そして1年が過ぎ10年が過ぎ、とうとう38年という月日が流れてしまいました。

 イエス様はそんな彼に「良くなりたいか」と言われました。ある意味、この呼びかけは残酷な問であります。38年間癒されたいと願いつつも癒されない彼にとって急所をえぐるような問いではないでしょうか。しかし、イエス様の問いに彼は「主よ水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」7と言いました。この悲観的な言葉がどれほど彼を絶望の中に置いていたか、もはや自分には癒される機会はなく、また誰も助けてはくれないという、自分に対しても隣人に対しても絶望感の中にあったのです。また、イエス様から「良くなりたいか」と聞かれ「ハイ」と答えられない、この絶望の中に安住してしまっている姿、イエス様が見出したのはそのような人であったのです。イエス様が問われた「良くないたいか」は真剣に良くなりたいか、救われたいか、新しい命に預かりたいか、苦しみ、悩みから解放されたいか、と言う問いであります。イエス様は彼に「起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい。」と言われました。床と言うのは彼が今まで生活していた場所、彼は今までこの床の上で過ごしていた。そこには、彼を縛り付けていた病もあった。また自分を助けてくれない隣人への憎しみもあった。何で自分だけがこうなるのか現実のむなしさがあった。その重荷を担って歩みなさいと仰せられた。

 誰もが重荷を担って歩むとき疲れを覚えます。故に「重荷を負うものはわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」マタイ11:28言われるのです。私たちが重荷を負って歩む人生は、まさにイエス様の十字架の歩みなのです。弱い彼には、そんな重荷を背負って歩むことなど出来ません。また勇気もないし、自信もない、力もありません。しかし、彼はイエス様を信じ信頼し、その招きに応えたのです。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」9 のです。イエス様の「良くなりたいか」の問いかけは、私たちに信仰による決断を求められているのです。信仰による決断とは、この世のむなしい空回りの人生から神の恵みに心を向けて、その中に飛び込むことを決心する事です。昨日までの過去に悩まされたり、現在の弱さを恐れる事なく、これからの自分の人生を神に委ねる事なのです。そして「起き上がり、床を担いで歩きなさい」の一歩を信じて踏み出すことです。信仰生活も何年かすると、それほど驚く事もなくなり、今日もまたそうであろうというふうに、神の力を見て行こうとしなくなってしまう。また神に深い期待をかけていこともしない信仰態度というものになってしまう危険性があると思います。私たちはせっかく神の恵みの家に来ておりながら、あまり神に期待を持たないで、ただ気休めにそこに座っているのかも知れません。38年病を負った彼はベトサダの池に来ていたが、一向に変わりがないという現実に捕らわれ、気が付くと足を踏み出す事ができなくなっていた。しかし、イエス様の「良くなりたいか」「立って歩け」との御言葉を信じたとき、新しい一歩を踏み出す事が出来たのです。もう一度私たちは、自分自身を振り返って見る必要があるのではないでしょうか。もしかすると恵みの家という教会に何も期待しないで来ているだけではないでしょうか。イエスはそういう人に対して、しっかりと信仰を持って歩けと言われるのです。 



 

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