【主日礼拝・巻頭言】                                       2008年11月16日 

 『あきらめないで』  

 
使徒言行録12:1−19

 

山岸 明牧師

                                                           

 ユダヤの王であるヘロデは、キリスト教徒を迫害すれば、自分の人気を回復し、また王としてその座を維持していくのに好都合だと考え、ヨハネの兄弟ヤコブを殺し、次いでペテロも捕らえた。ペテロは当時の教会の中心人物であったので、ペテロを殺せば更に喝采を受けると考えたのです。ヘロデに捕らえられたペテロは厳重に監視された牢に入れられ、明日は死刑になるかも知れない、そんな状況の中に置かれたのです。そんなとき「教会では、彼のために熱心な祈りが神に捧げられていた」5節。教会が出来た事と言えば祈ることだけでした。

 初めに、信仰とは諦めないことです。私たちは祈ったからどうなるのかと嘆きたくなる時があります。しかし、信仰とはどんな状態になっても諦めないで、望みを持って生きて行く事です。アブラハムは「希望するすべもなかったとき、なおも望みを抱いて信じた」ローマ4:18それは死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。教会はこの世に対して弱くても、一向に差し支えありません。しかし望み得ない時に、尚、望みに生きる強さを決して失ってはいけません。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」へブライ人11:1

 次にペテロに対して「急いで起き上がりなさい、帯を締め、靴を履きなさい。上着を着て、着いてきなさい」12:7-8 「・・なさい」と言われました。「・・なさい」というのは、私たちに応答を求める言葉です。「ペテロはその通りにした。ついて出て行った」。12:8-9 ペテロは神の言葉に応答し従ったとき、絶対絶命から救われました。ペテロは言った。「今初めて、本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」11 私たちの人生にもそんな出来事が起きていると思います。しかし、それに気が付かないで見過ごしているのかも知れません。

 最後にペテロは神が自分にして下さった「救い」を伝えに戻りました。キリストを信じた故に捕らえられ、先ほどまで死の恐怖と向かい合っていた者が逃げる事も出来たはずです。ペテロは何故キリストの教会に戻って行ったのでしょう。それは、救われた喜びを皆なに伝えたい、分かち合いたい。信じることの素晴らしさを体験者として語りたい、神を賛美したい、そんな思いがあったからです。しかし、祈りが聞かれペテロが救われたと聞くと教会では、そんな馬鹿なことがあるかと言った。私たちもいつまでも幻の中にいてはなりません。ペテロが「今、やっと本当のことが分った」と告白したように、私たちも救われていると喜びを告白しましょう。

 

音声によるメッセージ

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 【主日礼拝・メッセージ】                                                   2008年11月16日 

 『あきらめないで』  

 
使徒言行録12:1−19

山岸 明牧師

 使徒行伝を見て行きますと初代のキリスト教会の様子が伺えます。特に初代教会を根底から揺さぶったものの一つに、ユダヤ人からの迫害がありました。ユダヤ教の教えをしっかりと守ってきたユダヤ人たちは、キリスト教を異端(間違った宗教)と見なしていました。ユダヤの王であるヘロデは、キリスト教徒を迫害すれば、自分の人気を回復し、また王としてその座を維持していくのに好都合だと考え、ヨハネの兄弟ヤコブを殺した。権力者というのは自分の名声、自分の政策遂行のために役立つなら、どんなことでもする。またこれは権力者だけでのことではありません。私たちもそれぞれが自分の立場を守るために、自分の思いを達成する為に身近にあるあらゆる物を利用してしまう事があるのです。ヘロデは次いでペテロも捕らえた。ペテロは当時の教会の中心人物であったので、ペテロを殺せば更に喝采を受けると考えたのです。ヘロデに捕らえられたペテロは厳重に監視された牢に入れられ、明日は死刑になるかも知れない、そんな状況の中に置かれたのです。教会が出来た事と言えば   祈ることだけでした。「教会では、彼のために熱心な祈りが神に捧げられた」。5節

 そんな絶対絶命の中で祈ったからどうなるのかと嘆きたくなるときがあります。しかし、信仰とは諦めないことです。私たちはこの社会に身を置きますと、現実と社会の中で神に対する信仰を諦めてしまったり、また失望に心が向かってしまったりすることがあります。しかし諦めることとは、実は神の前に大きな不信仰を働いていることになります。全知全能の神を信じるとは、どんな状態になっても諦めないで、望みを持って生きていくことであります。それが信仰です。どこに望みがあるか。それは、神にあって望みを持つのである。アブラハムは「望み得ないのに、尚も望みつつ信じた。ロマ4:18」。望みのない状況にあって望み信じたのです。何故でしょう、それは死人を生かし、無から有を呼び出される、神を信じていたからであす。初代の教会は、この世的には全く弱かった。しかし望み得ない時にも、尚、望みつつ信じる強さを持っていた。今日の教会は、彼らに比べれば遥かに人も多く、お金も知識も、またこの世に対する影響力も持っている。しかしそういうものがどれほどあっても、信仰において弱いならば、それはもはや教会とは言えないのではないでしょうか。?教会はこの世に対して弱くても、一向に差し支えない。しかし望み得ない時に、尚、望みに生きる強さを決して失ってはならないと思います。大事なことは、神をどのように信じ、信頼して、なお従って生きていくことが大切であります。

 次に、聖書には「急いで起き上がりなさい」12:7「帯を締め、靴を履きなさい。」12:8「上着を着て、着いてきなさい」12:8 ペテロに対して主の天使御は「・・なさい」と言われました。「・・なさい」というのは、私たちに応答を求める言葉であります。私たちはともすれば、神の言葉を聞いても聞き流したり、また、第三者的に聞いてしまうことがあります。しかし「・・なさい」という神の言葉は、私たち一人一人に問いかけられているのです。「ペテロはその通りにした」12:8 そして「ペテロはついて出て行った」。12:9 ペテロは神の言葉に応答したのです。その時、神の世界に触れた。すると鎖は解け、扉は開いた。神の言葉に私たちが応答するなら、神の世界に生きる者とされるのである。その時、神はもはや幻の世界や夢の話しではなく、現実のものとなるのです。それが神との出会いであります。私たちが神の言葉に聞き従う時、神の現実が私たちに開かれ、神の愛の世界を知る。この事なしに、どんなに考えても、考える事では決して神を知ることはありません。
絶対絶命から救われたペテロは我に返って言った。「今初めて、本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」11ペテロはその時まで夢を見ているような気持ちであった。考えられないことが現実となったからであす。主がなさったと良く分かった。こうなりますと神の現実を認めずにいられなくなるのです。神の現実を体験していたからであります。

 私たち一人一人の人生の中で神様を認めずにはいられない、そんな出来事が起きていると思います。しかし、それに気が付かないで見過ごしているのかも知れません。ですから私たちの信仰はいつも、ふらふらと動揺させられるのです。ペテロは神が自分にして下さった「救い」を伝えにヨハネの母マリアの家に行きました。先ほどまで死の恐怖と向かい合っていた者が、救い出されたならこの時とばかり逃げることも出来たはずです。キリストを信じた故に捕らえられたのに、何故キリストの教会に戻って行ったのでしょう。それは、キリストが絶体絶命という絶望の中から救ってくださったことを、その喜びを皆なに伝えたい、喜びを分かち合いたい。信じることの素晴らしさを体験者として語りたい、神を賛美したい、そんな思いが合ったからです。しかしペテロが帰ると、ロダという女中が驚いた。ロダから知らされた教会の人々も驚いて、「あなたは気が狂っている」15 と言った。不思議なことにペテロの救出を祈っていたのに、ペテロの声を聞いて誰も信じなかった。私たちもこうした事になっていないでしょうか。迫害された時、祈りで立ち向かっていた初代教会の人たちでさえ、祈りが聞かれた時、そんな馬鹿なことがあるかと言った。いかにも信仰深そうにアーメンと祈ったとしても、それで良いのではない。神は私たちの内面、心を見られるのです。神を信じないで祈っていても、神は応えるのに困惑されるのではないでしょうか。ペテロも祈りが聞かれたとき、まるで幻を見ているようだといって動揺した。私たちもいつまでも幻の中にいてはなりません。「今、やっと本当のことが分った」と告白出来る様に主に祈って生きたいと思います。



 

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