【主日礼拝 メッセージ】                                        2009年9月6日 

 『私の手から神の手に』 

ペトロ(一)5:6−11 

 

 私たちの生活には常に心配事や不安といった思い煩いがあります。家族のこと、人間関係のこと、病気のこと、仕事のこと、老後のこと、死後のこと・・・。私たちは生きている限り、この思い煩いから逃れる事はできないのでしょうか?

 初めに、思い煩いは誰にでもある事だからと言って軽く見ることは危険です。
思い煩いは心の病気になったり、頭痛、高血圧、胃潰瘍、無気力感など体にも病状が現れてきます。更に幸せそうな人を見ると嫉妬したり、憎らしくなったり、不幸を願ったりと悪魔的な思いになります。聖書の言う思い煩いとは「心が割れる」と言う意味があり「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」8節。思い煩いは神様に向いている心を割ろうとしている事なのです。

 次に、思い煩いから脱却するにはどうしたら良いのでしょうか。
私たち人間は今まで色々な方法でそれを克服しようと知恵を使ってきました。例えば、他人よりも権力や財力を持つこと。ある人はギャンブルやアルコールで一時的に忘れようとしたり、ある人は人を批判する事でその問題を処理しようとします。ある人は友人に相談します。しかし、思い煩いから脱却できません。では、どうしたら良いのでしょうか?聖書は「何もかも神様にお任せしなさい」7と言われます。大きな事も小さな事も、全てをお任せしなさい。神様に絶対的な信頼を置き委ねる事が出来れば、それは私たちにとって絶対的な大きな力となり、揺るぎない者となっていくのです。

 最後に、勇気を持って私の手から神の手に委ねることです。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る、走っても弱ることはなく、歩いても疲れない」イザヤ40:31 私たちは未来を預け、委ね先を持って生きなければなりません。それが「主に望みを置く」という事です。思い煩いは信頼して主の御手に預けて、私の手の中には置かない事です。委ねる先があると言う事は大きな恵みです。これから先、どんなに大きな不安があっても力強く生きる事が出来ます。しかし、委ねる事ができなければ、いつまでも思い煩いが私の手元に残るのです。

 

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