【主日礼拝 】                                           2010年11月7日 

『主の山に備えあり』

 創世記22章1-14節

山岸 明牧師

 
 神はアブラハムに「あなたの息子を焼け尽くす献げ物としてささげなさい」と大きな試練を与えられました。もし、あなたの身に同じように大きな試練が与えられたら、あなたはどうしますか?
初めに、信仰の目をもって見ること:アブラハムと妻サラには子どもがいませんでした。そんなアブラハムのもとに主が現れてこう告げました。「あなたと妻サラの間に男の子を与えよう。そしてあなたがたの子孫を祝福しよう。アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。百歳の男に子どもが生まれるだろうか。九十歳のサラに子どもが生めるだろうか」(創世記17:16−17)。彼らはなぜ主の約束を笑ったのでしょう。それは御言葉を頭で理解し、この世の常識で捉えたからです。笑う彼らに主は仰せられました。「主に不可能なことがあろうか」(創世記18:14)。神様の約束は信仰を通して見ていくのです。そうすると、不条理なことでも必ず意味があることを知るのです。
 次に、神の試練には意味があります: 神はこの試練を通してアブラハムに何を教えようとされたのでしょう。それはアブラハムにとって息子イサクは、すべての財産や、また自分自身よりも、更には、神様よりも大事になってしまったのです。私たちも日常生活の中で大切なものが増えていくと、その大切な物のために教会から離れ、信仰から離れ、そして神様から離れてしまう事があります。つまり、神様が下さった祝福を神様以上に大事にしてしまうのです。これは偶像なのです。ヤコブは「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」(ヤコブ 1:2)と言いました。試練は私たちが神の御心を忘れたり、御心からずれたりしないようにと守ってくださる神のみ業であり恵みなのです。
 最後に、神の試練には備えがあります:アブラハムは主の命令どおり、イサクを捧げる決意をしました。そのアブラハムの心を見ておられた神様はみ使いを通して仰せられました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(22:12) この後、アブラハムは神様の供えてくださった雄羊を献げ物としてささげた。アブラハムは、その場所を「主は備えてくださる」と告白した。神を信頼し真剣に従うとき、そこには従った者だけが分かる世界があるのです。


 
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