【主日礼拝 】                                           2010年11月21日 

『一粒から豊かな実が』

ヨハネによる福音書12章20-26節

山岸 明牧師

 皆さんは、神様を信じていますか?「信じているつもりです」「信じて行こうと思っています」「信じているかも知れません」・・・あなたの罪は赦されていますか?「赦されていると思います」。「赦されていることを願っています」・・・では、今日あなたが召されたら天国に行けますか?「行けると思います」「死んで見なければ分かりません」・・・
 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(ヨハネ(一)5:13)。とあります。死んでみなければ分らないのではなく、永遠の命を得ている事などしっかりと悟りなさいと言いました。
“はっきりと私は神様を信じています。私の罪は赦されました。永遠の命を与えられました”と断言できますか?どこかに、はっきりと言い切れない自分がいるのではないでしょうか。「はっきりと言っておく。一粒の麦は、地に落ちなければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24)。イエス様は、ご自分の十字架の死を「一粒の麦が地に落ちる」ようなものだと譬えられました。麦が地に落ちると、その麦の形は無くなりますが、やがて芽を出し、茎を伸ばし、成長し、多くの実を結びます。同じように、イエス様の十字架の死は、それで終わることなく、三日目に復活をしてくださいました。それによって私たちを罪から救い、永遠の命を約束し、人生に豊かな実を結ばせてくださる初穂となられたのです。
 私たちは聖書の意見を参考に人生を手直ししていく事があります。それは信仰ではありません。それは、自分の考えをキリスト教風に変えているだけであって、キリストを信じて歩いているのではありません。聖書の言葉は参考意見ではなく、神様そのものです。聖書の言葉通りを実行したら、とんでもない事になってしまうのではないかと思うかも知れません。しかし、信仰は決断です。もし、神様に従うと決断しながら、今までと変わらない生活をしているならば、神様をいつまでたっても体験することはできません。だが、この神様を信じて歩む時に、神様の約束が確実であると体験するのです。その体験はさらなる信仰の確信へと導くのです。


 
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