【主日礼拝 】                                       2011 年3月13日 

『恵みの証人(獄中からの手紙)』

フィリピの信徒への手紙1章21-26節

山岸 明牧師

 一昨日、私たちは今まで経験した事のない大きな地震に見舞われました。その被害は日々拡大し自然の脅威とともに人間のもろさを知りました。地震の多い国ですから、その対策や備えもしていましたが、これほど大きなものになると、何もすることができず、ただ見ているだけです。私たちは身の回りに起こる、さまざまな問題によって心を痛め、苦しみ、悩み、眠れない日を過ごす事もあります。そして、心が不安や苦しみからくる力に囚われ、牢獄に閉じ込められた思いになります。この苦しみから、だれがわたしを救ってくれるだろうかと叫びたくなります。

 パウロは牢獄にあって、我が身に起こった災難をどのように喜びに変える事が出来たのでしょうか?それは、視点を自分ではなく、イエス・キリストに置きました。それは、わたしのために十字架で命を投げ出してまで愛してくださった。そのキリストの愛です。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き話すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危機か。剣か。」(ローマ8:35) このキリストの愛からわたしたちを引き離せる者は何もない、死をもってしても引き離せない。この恵みの確信に立ったとき、パウロは「生きるとはキリストである」と告白しました。キリストの命が自分の中に注ぎ込まれ、キリストと一つとなっている。そして、自分はキリストの愛の中に生かされている。故に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言うのです。

 パウロはかつて『自分が生きる』という事を熱心に求めた人です。周りにいた人々を押しのけてでも自分が生きようとしました。常に「自分が、自分が」  でも、それは救いのない歩みでした。それが今では「キリストが、キリストが」と言えるまでに変えられました。それは、自分がいきているのではなく、キリストの十字架という恵み、わたしはキリストによって救われた、その愛に生かされているのだと知ったからです。パウロはその恵みの証人として、今日の私たちにも同じように、災難の中にあってもキリストの恵みは変わる事なく、わたしに注がれている事を教えてくれるのです。


 
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