【主日礼拝 】                                       2011 年4月17日 

『十字架とわたし』

マルコによる福音書15章6-15節

山岸 明牧師

 あなたにとって十字架とは何でしょうか。あなたにとって十字架はどんな意味がありますか。あなたとって十字架とはどんな価値がありますか。

 当時は祭りの度ごとに、囚人が一人釈放(恩赦)されました。ピラト(ローマの総督)はイエス様を釈放しようとしましたが、ユダヤの祭司長たちや群衆はイエス様の釈放ではなく、暴動を起こし、殺人罪で捕らえられていたバラバの釈放を願いました。バラバにとっては思いがけないことです。バラバ暴動の首謀者で、捕らえられ、裁かれ、待つのは死刑だけでした。それが突然釈放されることになったのです。それも自分のように暴動を起こしたり、殺人を犯したわけでもない、ただ、イエスというお方が、自分に代わって死刑の判決を受けたから釈放になったのです。本来、自分が負うべき死の定めを負ってもらって自由になったのです。しかし、この後バラバはどうなったか聖書には記されていません。

 あなたはどう考えますか。バラバは自由の身になって「やったぜ、ラッキー」と言って、その後の人生を自分の好き勝手に生きたのでしょうか。それとも自分の身代わりになって死んでくださったイエス様に感謝して生きたでしょうか。あなたはバラバにどちらの生き方を望みますか。なぜ、このように聞くかと言うと、実は「バラバ」とは私たちのことなのです。私たちも罪のゆえに裁かれ、滅び行く者でした。しかし、イエス様が私の罪のために代わりに死んでくださった。私たちもイエス様とまったく関わりなく生きることもできます。反対にイエス様を自分の救い主として感謝して生きる事も出来ます。ここには強制はありません。恐ろしいまでの自由です。あなたはどちらを選択しますか。


 
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