【主日礼拝 】                                       2011 年5月8日 

『私にしか出来ないこと』

コリント(一) 12章1-11節

山岸 明牧師

 教会はイエス・キリストを頭とする体であると言われています。この教会を立て上げ成立させるのは、この建物ではなく、神によって招かれ、集められた私たち一人一人がキリストの体の一部として教会を成立させるのです。こうして集められた私たち一人一人は、性格も、考えも、生い立ちも、みな違いますが、そういう中で、互いにその違いを認め、互いに尊重し、互いに違いを受け入れていく、そして主体を自分に向けるのではなく、常に教会の頭であるイエス・キリストに向けていくところに一致があり、それを保ちながら私たちは成長していくのです。

 聖書に「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目でないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし、体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』とも言えません」(12:14-21)とあります。

 この仙川教会に集められた一人一人は、教会の体の一部として神様から必要とされ招かれたのです。それぞれが体の一部として、目になり、耳になり、口になり、足になり、それぞれの働きは違いますが、しかし、だれ一人として、その働きから漏れる人はいないのです。私たちの存在を抜きにして教会は成長も完成もないのです。それぞれに与えられた賜物を持って、神に仕え、また互いに仕え合う事によって、自分も、相手も、互いに豊かにされるのです。「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(ペトロ(一)4:10)。ここに私たちの成長があり、また教会の成長があるのです。それぞれに“私にしかできない”賜物が与えられています。あなた以外にあなたの果たすべき役割を担える人はいません。神様は私に持ち合わせていないものを求めてはいないのです。それならば、私たちはもっと大胆に行動しようではありませんか。


 
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