【主日礼拝 】                                       2011 年5月15日 

『隣人に仕える』

マタイによる福音書10章40-42節

山岸 明牧師


 聖書では奉仕を『ディアコニア』、奉仕者を『ディアコノス』と言っています。これはギリシャ語で、他の人々の必要を満たすため、仕える、働く、手伝う、自分をささげる、という意味があります。イエス様自身「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)。と仰せられました。社会では、権力、所有物、名声、地位などによって人の偉大さが決まり、多くの人を自分に仕えさせれば成功者と言われます。しかし、イエス様は、人の偉大さとは社会的地位などによるのではなく、その人がどれだけ仕えているかという観点から測られるべきだと言われました。「あなたはがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43-44)と仰せられました。
 誰でも仕える者にはなりたくありません。クリスチャンであってもそうです。仕えるより、仕えられたいのです。私たちが神に仕えることも、隣人に仕えることもそうですが。仕えるには僕の心を持たなくてはなりません。僕の心とはどういうものでしょう。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6−8)。
 仕えるものは神に従順でなければなりません。もし、神があなたの前に助けを必要としている人を置かれるとき、神はあなたに成長の機会をお与えになっているときです。仕える者は言い訳をせず、ぐずぐず先延ばしをせず、状況が好転するまで待つ事もしません。「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈入れはできない」(コヘレト11:4)とあるように、その働きを進めていきます。また、何をするにしても心からそれを行うのが僕です。立派になりすぎて、小さな仕事に関わる必要がなくなる事など決してありません。主イエスは、人の嫌がる卑しい仕事を率先して行いました。重い皮膚病の人に仕え、人の足を洗い、子どもたちの面倒を見、朝食の用意もしました。人の偉大さは小さな仕事の中に現れるのです。もし、僕の心を持って打ち込むならば、どんなにつまらない事でも価値ある働きとなるのです。そして、喜んで僕になろうという人のための道は大きく開かれています。外にあなたの果たすべき役割を担える人はいません。神様は私に持ち合わせていないものを求めてはいないのです。それならば、私たちはもっと大胆に行動しようではありませんか。


 
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