【主日礼拝 】                                       2011年5月22日 

『光に照らされて』

創世記1章1-3節

山岸 明牧師

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。」(創世記1:1‐3)では、その光はどこにあるのでしょうか。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)この言が何であるのかということは、14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)そうです。言とは神の子キリストのことです。

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4)と告げます。これは、まことの命であるキリストは、人を照らす光であるということです。光とは、私の足元を照らし出すものであり、私の行くべき方向を示すものであり、そして光は、私たちの希望であり、喜びであり、平安であります。このキリストの光に照らされなければ、私たちは自分が何者であり、何が正しく、何が悪いことなのかさえも分からないのです。

 私たちは、キリストの光に照らし出されるまで、暗闇の中を歩んでいました。しかも、それが暗闇であるという事も分かりませんでした。キリストの光に照らし出されるまで、自分の欲望を満たすためだけに生きる事しか知りませんでした。それが暗闇の中に生きている事である事も知らなかったのです。しかし、主イエス様と出会って、私たちは愛を知らされました。そして愛する“我が子よ”と語りかけてくださる神様との交わりの中に生きる幸いを知りました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。この地上の命が閉じられた後も、終わる事のない永遠の命に生かされる事も知りました。それは、私を照らし出してくださるキリストと共に、まことの光に包まれて生きる者とされたからです。


 
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