【主日礼拝 】                                       2011年7月3日 

『見せかけの正しさ』

ルカによる福音書5章27-32節

山岸 明牧師


                 
 言葉というのは便利なもので、たとえ嘘でも、筋が通っているともっともらしく聞こえます。心のどこかで少し変だと思っていても、それに説得力が加わるとなお更です。当時の教えでは、罪人と言われる人々と一緒に食事をすることは間違った事とされていました。ファリサイ派の人々はイエス様の弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人と一緒に飲んだり、食べたりするのか」(30)。と問いただしました。イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と仰せられました。この言葉の裏には、表面的な正しさだけを見せる、ファリサイ派や律法学者たちの偽善を暴露したのです。

 見せかけの正しさは偽善です。偽善とは“うわべだけ”をいかにも善人らしく見せる事で、外面的に善い行為に見えても、それが本心や良心からではないことです。イエス様の仰せられる正しさとは表面的なものではなく“心“内面のことを言っているのです。あの最も重要な掟の第一に「神を愛しなさい」とありますが、それもただ愛するだけでなく、心を尽くして主を愛しなさい、と仰せられました。ただ愛する事と、心から愛する事は違います。ただ謝る事と、心から謝る事も違います。そこに心が在るか無いかで全然違うのです。心が大切なのです。

 ヒゼキヤは25歳で南王国ユダの王様になりました。これからは一国を治め、敵から国を守らなければなりません。民からの信頼を得ていかなければなりません。そんなときヒゼキヤ王は何をしたか「自分の神、主の御前に良い事、正しい事、真実な事を行った。彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げた」(歴代誌下31:20-21)。神を求め、心を尽くして進めたとき、すべてが成し遂げられたのです。イエス様も十字架の上から「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。と仰せにならました。そこには私たち一人一人を、心を尽くして愛されたからです。神を求め、心を尽くすとき、それは必ず成し遂げられることを覚えましょう。


 
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