【主日礼拝 】 平和を覚える礼拝                                  2011年8月14日 

『忘れられる神』

ルカによる福音書12章4-7節

山岸 明牧師

 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」(4)とあります。イエス様はただ「恐れるな」と仰せられたのではなく、次のように付け加えています。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威をもっている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(5)。

1 主を恐れることは、神様の前に謙虚になること。
神様は私たち人間とまったく区別されるべきお方であることを知ることです。それは、私たちをいかようにもおできになる方の前に謙虚になることです。神様は人間の高慢を糾弾します。高慢とは、主を恐れない姿であり、主をあがめることをしない姿です。また、神様なしで生きていけると考え、神様に背を向ける姿です。そこから、まるで自分が神であるかのような行動、態度、言動が生れてくるのです。すべては神様を忘れるところに闇ははびこるのです。

2 主を恐れることは、知恵の初めである。
 昔、エジプトの王は、奴隷として領内にいるへブル人が力を増していくのに恐れをなして、へブル人の助産婦たちに、子どもを取り上げるときに、男の子の場合は殺すように命じました。しかし「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(出エジプト記1:17)。この助産婦たちは見える王様より、見えない神を畏れたのです。この大きな決断こそ、まさに神様から与えられた知恵なのです。

3 主を恐れることは、恐れからの解放です。
 「愛には、恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(ヨハネの手紙(一)4:18)。本当に恐れるべき方である神を恐れ、そのお方の前に真実に生きるならば、私たちは何一つ恐れることはないと仰せられます。それは「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(7)とあるほどに、私たちのすべてをご存じなる神様が、私たちを愛し、私たちのすべてを守り、支え、導いてくださるからです。この愛を信じ、信頼することができるなら、私たちの信じる愛が、恐れを締め出してくださるのです。

 


 
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