【主日礼拝 】                                  2012年2月5日 

 『裁く重荷と、裁かれる不安』

マタイによる福音書7章1-6節

山岸 明牧師

 お互いに責め合い、罵りあい、裁き合っている人間の姿を考えて見てください、あなたは間違っている、あなたが悪いと言って、人を裁いたり、罪人と決めつけたり、過ちを責めるような人間の姿というのは、ぎすぎすして、貧しい人間の姿のような気がします。逆に、裁かれ、責められるという不安を抱いて生きるのも大変つらいことです。
 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(1)。人を批判し、人を裁く権利は私たちにはありません。神が審判者であり、私たちが神様の立場に立ってはいけないのです。しかり、私たちが人を裁くとき、自分には間違いがなく、正しい者としてしまうからです。「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(3)人間は正しく人を評価できないからです。 特に人は自分には甘く、人には厳しいからであります。
 私たちが神様の前に立つとき『私は正しい』と主張できるでしょうか。この問題においては正しかったとしても、自分を振り返る時、自分も裁きを受けるような人間である事に気づかされます。あるとき、イエス様の前に姦通の現場で捕らえられた女性が連れて来られ、皆の前に引き出され、真中に立たせられました。彼らはイエス様に言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:4−5)。イエス様は言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っていきました。そして、イエス様も「わたしもあなたを罰しない」と言われました。
 聖書には裁き合う事ではなく、赦し合う事が語られています。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:13)これが、裁きの重荷から解放です。


 
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