【主日礼拝 】                                  2012年4月1日 

 『驚くべき愛』

ヨハネの手紙(一)4章7-12節

山岸 明牧師

 
 詩編に主イエスの十字架のお姿が語られています。「骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺めた」(22:18)だれもこの方が救い主だとは思えません。

 十字架に付けられた主イエスは私たちが想像する救い主とは違いました。救い主はだれよりも強く偉大です。しかし、私たちが仰ぎ見ている主イエスは、いばらの冠をかぶせられ、馬鹿にされ、ののしられ、つばを吐きかけられ、虫けらのように十字架につけられた憐れな救い主です。主イエスは罪人の姿で裁かれたのです。十字架の本質は、私たちの罪人としての姿がそこにあるのです。主イエスの弱さは私の弱さ、主イエスの苦しみは、私の苦しみ、主イエスの痛みは、私の痛み、主イエスの孤独は、私の孤独、主イエスの死は、私が裁かれて死ぬはずの死なのです。主イエスは十字架で私の罪、苦しみ、痛み、孤独、その一切をその身に受けてくださったのです。私たちはこれほどまでに愛されているものなのです。

 主イエスが十字架につけられたとき、両脇に二人の犯罪人が一緒に十字架につけられました。すると一人の犯罪人が主イエスに向かって言いまいた。「お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23:39)。もう一人は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ24:39−43)と言われた。あなたの本心はどちらの人ですか?

 この十字架を心から受け入れた人は変えられます。神がこれほどまでに、私を愛してくださった。私は愛されている、ここから人生は始まります。愛されて生きる喜びを知るのです。喜びには『力』が伴います。その力は『隣人を愛する』と言うところまで成長させて下さいます。愛は後ろのものを忘れさせ、前向きに歩ませてくださいます。主イエスは今も、この愛を受け取りなさいと呼びかけておられます。あなたは何と答えますか?


 
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