【主日礼拝 】                                  2012年4月22日 

 『喜びの礼拝』

ヨハネによる福音書4章20-26節

山岸 明牧師

 
 私たちが日曜日ごとに一つところに集まって礼拝をささげるということは何を意味するのでしょうか。礼拝は神と人間の関係をはっきさせ、神を神としてあがめる事です。とても単純明快です。だが難しい。何故ならば、世の中は神など必要としない社会で、人間が全てを支配しようと頑張っている世界だからです。しかし、礼拝は社会とは正反対で、神が人間を造られ、神がすべてを支配し、神が私たちを愛してくださっているお方である事を信じ、神をあがめるのです。それは、ひっくり返った世界を元に戻す事なのです

 礼拝は自分が何者であるかという事を確認する場でもあり、喜びと感謝をもって神の恵みに応答し、礼拝を通して地域に良き証をしていきます。故に、私たちが礼拝をおろそかにしたり、礼拝を軽んじる事があれば、それは自分自身のいい加減さをさらけ出す行為であり、周囲に対しても、キリスト教はいい加減なものである事を証しすることにもなるのです。私たちにとって礼拝は週の終わりの付け足しではなく、週の初めの出発点です。この主の日の礼拝の中で『主の名』を呼ぶ事が、私たちの生き方と、私たちの姿勢であり、礼拝は決して神と人間が取引する場ではないのです。

 私たちはいつでも、どこでも、神をあがめます「神を礼拝する者は霊と真理を持って礼拝しなければならない」(24)。また神を知らない方々は、私たちが教会で行っている様々な活動を通して、神様を見ることができます。私たち一人一人が礼拝において真剣に御言葉を聞き、それに応答し、声高らかに賛美する姿や、礼拝がどれほど、私たちを励まし、慰め、力づけているか、また聖書が人間の問題や疑問にどのように答えているか、それを見て感じる事ができるのです。私たちは、これからも神様からの恵に感謝し、喜びをもって礼拝をささげていきましょう。


 
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