【主日礼拝 】                                  2012年4月29日 

 『喜びの奉仕』

エフェソの信徒への手紙4章1−7節

山岸 明牧師

 奉仕、それは仕えること、それぞれに与えられた賜物を用いて喜んで奉仕すること、では、あなたの前に、やりたくない奉仕、つまらない奉仕が来たらどうしますか。私にはその賜物はないからと言って目を背けますか。奉仕するのもしないのも自由だと言って何もしませんか。聖書は全てのクリスチャンは奉仕に召されていると教えます。主イエスは「わたしは仕えられるためではなく、仕えるためにきた」(マタイ20:28)と仰せらました。この主イエスを信じて従うところに、私たちクリスチャンの生き方があるのです。
 私たちが仕える者になるには:私たちは仕えれば仕えるほど、仕えられない自分を発見します。相手のために時間も能力も体も心も使っても、相手から自分の思った通りの見返りがない時もある。自分はこれだけやっているのにと傷つきもします。それは仕える事が出来ないと言う自分のプライドが傷ついているのです。仕える人は、人にどう思われるか、人がどう思うかではありません。仕える者にとってはそんな事は関係ありません。ただ、主イエスがそうされたから、私もそのようにする。ここに本当の仕える喜びがあるのです。イエス様の十字架の血潮に触れて仕える者に変えて頂きましょう。
 真理はあなたがたを自由にする:私たちの奉仕は、やらされているのではなく、怒られるからするのでもなく、人から何か言われるからするのではありません。これは自由ではありません。イエス様が「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもしなさい」(ヨハネ13:15) 私たちが真理のために愛のために、人を赦すために、人に仕えるために、私たちの自由をそこにささげていったら、私たちは本当の自由を得る事が出来ます。
 仕えない愛とは:それは、あなたのため、愛しているからといって相手の人生を支配していく事です。愛情と言う名の支配です。愛と言う言葉を使っているけど仕えない愛、クリスチャンは「愛」と言う言葉をよく使いますが、仕えない愛は必ず人を傷つけます。イエス様の『仕える愛』に従ったとき、そのために何かを犠牲にしたならば、それは祝福となって戻ってきます。また、『仕えない』という壁にぶつかったとき、見つめる先は、私のために命を犠牲にしてくださったイエス・キリスの犠牲の愛だけです。感謝と喜びをもって共にに仕えていきましょう。


 
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