【主日礼拝 】                                  2012年6月17日 

『今日は天で大祝宴』

ルカによる福音書15章11-24節

山岸 明牧師

 
 放蕩息子のたとえ『ある人に息子が二人いた。ある日、弟の方が父親に、自分がいずれもらう事になっている財産を先にくださいと言った。そこで父親は財産を息子二人に分けてやった。すると弟はそれを全てお金に換えて家を出ていき、遠い国に旅立った。そこで放蕩の限りを尽くして、何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって食べるにも困ってしまった。彼は豚の世話をしながら、豚の食べるいなご豆を食べて腹を満たした。彼は落ちるところまで落ちたのです。絶望の中、彼は我に返って言った。父親のところでは、あんなに裕福に暮らしていたのに、自由になりたいと思って家を飛び出したが、今、自分の愚かさ、罪深さに気づいた。もう息子と呼ばれる資格はないが、父のもとに行って謝ろう。父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した。父親は息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったといって喜び、祝宴を始めた。』(ルカ15:11−24)

 ここに登場する放蕩息子は私たちです。そして祝宴を開いて喜んでくださる父は神様です。神様はこの放蕩息子のように、悔い改めて、立ち返るのを待ち続けておられます。悔い改めるとは、神様の愛から離れて、神様に背を向けて自分勝手に生きている状態から、神様に心を向け信頼することです。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)。一人の人が悔い改める喜びは天ではどれほどの事でしょう。

 自分は駄目な人間、愚かな人間、惨めな人間・・・と気付いて終わりではいけません。それだけであったら、ただの絶望で終わってしまいます。その絶望から自分の本当にいるべき場所に立ち帰る、それは神様の愛の中です。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(イザヤ書55:7)。神様に背を向けているならば、今こそ新しく生きる決心をするときです。


 
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