【主日礼拝 】                                  2012年7月29日 

『思い込みの罪』

ペトロの手紙(一)4章1-6節

山岸 明牧師

 私たちの毎日の生活の中で、思い込みによる誤解で失敗をする事がよくあります。しかし、これが信仰的な思い込みによる誤解となるとやっかいな事になります。イエス様は聖書の間違った解釈を他者に押し付ける『偽善』に対し「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、むなしくわたしをあがめている」(マタイ15:8)と、パリサイ人や律法学者たちを叱責されました。

 非公式な調査によれば、本格的に聖書を学び、熱心な人よりもほとんど学びの経験がない人の方が聖書的思い込みによる傷が少ない事が分かったそうです。しかし、それは“いいかげん”な信仰生活を送った方が平和に暮らせるという意味ではなく、聖書の本来の意味を知れば受けるべき恵みが”いいかげん“なものではない事を知るようになるという意味です。

 神の恵みと憐れみにより、イエス様が死に渡されました。わたしたちはイエス様の十字架よって罪が赦され、復活によって新しい命を頂き、キリストに従っていく歩みをしていきます。ですが、地上を歩む限り、苦しみが伴います。信仰における戦いもあります。それは大変な歩みです。けれども肉において苦しみを受けて下さったキリストが共にいて下さる。そこに私たちの信仰の確信を置いていくのです。

 「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(4:2)とあるように、同じ苦しみでも十字架の愛から来る苦しみと、勝手な思い込みからくる苦しみは違います。十字架の愛から来る痛みと、自分勝手な思い込みから来る痛みは全然違います。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(ペトロ3:17)。思い込み信仰から解放されて、十字架の信仰に立ち返りましょう。


 
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