【主日礼拝 】                                    2013年6月30日 

 『夢を見よう』 

創世記15章1−6節

山岸 明牧師

 6月21日から6月24日まで「沖縄(命どぅ宝)の日」6・23学習ツアーに参加してきました。対馬丸記念館、不屈館、沖縄陸軍病院、南風原壕群20号、召し上げの道、糸数アブチラガマ、韓国人慰霊碑、平和の礎、平和記念会館、沖縄バプテスト連盟主催の合同祈祷会、講演会など盛りだくさんの体験ツアーでした。しかし色々な場所を訪ねるに従い心が重くなっていきました。今まで自分の知っていた沖縄は誌面の上での世界でした。自分に何が出来るかと考えてみたら6・23を通して沖縄が抱えている痛みを知り、祈り、共有することでした。礼拝は那覇新都心キリスト教会で守り、教会学校は小学科に参加しましてきました。

 第一日目に訪れた「対馬丸記念館」に書かれていた言葉。
私たちは考えました。いま「対馬丸」を語ること、それは何でしょう?戦争のこと?それとも平和?本当に語って欲しいこと、それはいまそこにある、それぞれの「夢」のことです。暗く辛い戦時でも「夢」は持っていました。でも、生きていればこその「夢」、犠牲になった彼らの無くしてしまった「夢」、彼らが持っていたであろう未来への「夢」、その「夢の未来」にわたしたちは生きています。沖縄戦では多くが焼かれ破壊しつくされました。形あるものは失われました。しかし、人々の「想い」は決して失われません。

 私たちはいま自由に、そして大胆に『夢を見れる』時代に生かされています。「幻がなければ民は堕落する」(箴言29:18 )とありますが、生きていく中で大切なことは、夢、すなわち希望を持って生きる事です。ある人にあなたの夢はと聞くと「出世をしたい」「有名になりたい」「もっとお金がほしい」「大きな家に住みたい」など、いろいろな夢の答えが返ってきます。私たちは死ぬ時にもっていけないものばかりを欲しがります。しかし、それは「夢」というより「欲望」です。ヨエル書には「老人は夢を見、若者は幻を見る。」(ヨエル書3:1)とありますが、それは私たちの願望ではなく、どうありたいか、どういう人になりたいか、どういう人生を過ごしたいか、という問いなのです。        


 
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