【主日礼拝 】                                    2013年7月28日 

 『裁くという重荷』 

ルカによる福音書6章37-42節

山岸 明牧師

 人を裁くな、そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすればあなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される」(37−38)

 主イエスは何故「裁いてはいけない」と仰せられたのでしょう。それは、私たちの裁きが間違っているからです。私たちの中には二つの秤(はかり)があります。一つは自分を量る秤で、もう一つは相手を量る秤です。「あなたがたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(41)とあるように、相手の欠点はよく見えるのに、自分の欠点や過失には気づかない、気づいても認めない。同じことをしても自分よりも相手に非があると言って裁く、これが『人(私)と人(あなた)』との関係です。

 私たちがどんなに正しいと言っても、義なる神様の前において自分は正しいと主張できる人はいません。「だから、すべての人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて同じことをしているからです」(ローマ2:1)とあるように、すべての人が神様の前において裁かれるべき存在なのです。しかし、憐み深い神様は私たちを裁きから救うために御子イエスを十字架につけ罪を赦して下さいました。これが『神様と人(私)』の関係です。

主イエスは「主の祈り」の中で「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と教えられました。そして十字架の上から「神よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られました。自分の意に添わない人でも神様はこの人を赦されているのだ。この神様の愛と主イエスの十字架を信じるときに、私たちも赦された者として相手を赦す思いが神様によって与えられるのです。この恵を受け入れ、裁きの重荷から解放されましょう。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:13)。これが『神様と私とあなた』の関係です。