【主日礼拝 】                               2013年9月29日 

 『愛すればこそ』 

ルカによる福音書14章25-33節

山岸 明牧師

 
主イエスは弟子に必要な3つのことを仰せになりました。
1、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26)。主イエスに従おうとするとき、夫婦や親子や兄弟という家族の関係にもひびが入り、敵対関係が生まれ、平和でなくなるというようなことが起こります。主イエスに従おうと熱心になればなるほど、家庭の中に争いが起きます。主イエスはそれでも、わたしに従う「覚悟」があるかと問われました。

2、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27)。主イエスの十字架は、辱めを受け、理不尽な仕打ちをされ、迫害そのものでした。ある人は病や障害を負っていることに、これは「私の十字架」だと言い、ある人は、自分の自制が足りなくて欲望に負けてしまうことを。これが「私の十字架」だと言います。しかし、聖書が言う「自分の十字架を負う」とは、主に従うが故に、バカにされたり、嫌がらせを受けたり、迫害される事を言っているのです。

3、「自分の持ち物を一切すてないならば、だれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33)。弟子は犠牲を払うことについて訓練されます。その目的は私たちを豊かな者にする事で、どんな状況の中にあっても主イエスを信じ、信頼していく者に成長するためです。この3つに共通しているのは「覚悟」です。主は私たちを愛するが故に「覚悟」を求められるのです。主イエスが求める「覚悟」とは、私には無理かもしれない、出来ないかもしれない、従えないかも知れない、そういう弱さの中にありながらもって従いたいと言う「覚悟」です。主イエスは私たちの小さくて弱い「覚悟」を喜ばれるのです。そして、義という平和に満ちた実を結ばせ、壊れることのない、愛、喜び、平和をお与えくださいます。主イエスは私たちの一つ一つの小さな「覚悟」を決して無駄にされないことを覚えて、主の愛を信じて歩みましょう。