【主日礼拝 】                               2013年10月6日 

 『こんな愛があったのか』 

ルカによる福音書15章11-32節

山岸 明牧師

 ある人に息子が二人いました。ある日、弟の方が父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。すると下の息子は全部をお金に換えて家を出て、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。更に、追い打ちをかけるように、その地方に大飢饉が起って、彼は食べるにも困った。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べて腹を満たした。そこで彼は我に返って言った。「お父さん、わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(18)。そして、彼はそこを立ち、父親のもとに帰った。

 すると、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した。そして最高の洋服を着せ、指輪をはめてやり、足に履物をはかせ、肥えた子牛を用意して、息子が帰ってきたことを祝った。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(24)。親の目の届かないところで、自分の好きなように生きることを願ったが、結果は滅びの道へとまっしぐらに駆け落ちて行きました。

 これは神様と私たちの関係を現しています。聖書が言う「罪」とは、神様に背を向けて生きる事です。そこには本当の自由はありません。主イエスは仰せられた。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、圧迫されている人を自由にするため」(ルカ4:18)である。本当の自由と平安は神のもとにあるのです。彼はそのことに気が付きました。そして、わたしは罪人です。父親のもとに帰れるような資格はない。でも彼はありのままの状態で父親のもとに帰って来たとき、父親は息子が「死んでいたのに生き返った。」と言って祝宴を開くほど喜んだ。神様は私たちが滅んでいくことを望まれません。神様は私たちを決して見捨てることはありません。御子キリストを十字架につけ、その命に代えても、愛し抜かれ、わたしの帰りを待ち続けるのです。こんな愛があることを私たちは知っているでしょうか。