【主日礼拝 】                               2013年10月13日 

 『神は見ておられる』 

ルカによる福音書16章19-31節

山岸 明牧師

 「ある金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人が死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。(19−23)。

 金持ちはラザロと共にいる信仰の父アブラハムに言った。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。しkし、アブラハムは言った。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」(29)つまり彼らには聖書の言葉が既に与えられているではないか。金持ちは言った「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」(30)。アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。

 死後の世界を知っている者が生き返って、死後の世界の苦しみや祝福を伝えれば、それを聞いた人は悔い改めるだろうとこの金持ちは考えたのです。しかし、他の人への関心や愛は、死後の世界に対する恐怖などから生まれることはありません。たとえ死後の世界から人が戻っても、それによって悔い改めなど起こらないのです。聖書が語っているのは、今この地上に生きている私たちに対して徹底的に関わりを持とうとされる神様の愛です。聖書は神様の愛そのものであるイエス・キリストを指し示す書物であり、このイエス・キリストによってのみ救いと解放があるのです。