【主日礼拝 】                               2013年10月27日 

 『叫びは祈り』 

ルカによる福音書18章35-43節

山岸 明牧師

 ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これはいったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスがお通りだ」と知らせると、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。(ルカ18:36−38)この叫びは絶望の中からでた“祈り”です。

 わたしたちは人生の中でたくさんの傷を、痛みを負います。やり切れない思いに悩みます。そんな時に、その痛みをどこに持って行ったらよいのでしょうか。よく自分の痛みを人に結びつけていってしまうことがあります。そうすると、その人の傷口から苦いものがあふれ出て、結果、周りの人々を傷ついていきます。また、その傷が自分に向けられるとき、自信をなくし、こんなわたしは駄目だと言って、自分を責め、自分を否定して、傷ついたまま前に進むことができなくなってしまいます。

 しかし、わたしたちの傷がイエス・キリストに結びついていくならば、主イエスの憐みを受け、その傷が癒され、更にわたし自身が憐れむ者に変えられ、わたしの傷口を通して主の憐みが流れ出てくるのです。主イエスは十字架で傷を受け、痛み、苦しみました。肉体だけではありません。身近な弟子たちに裏切られ、世から捨てられ、周りからののしられ、つばをはきかけられ、心も体も深く傷ついた。イザヤは言いました「キリストの受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:5)。主イエスの十字架は、実にわたしの傷を、痛みを、その身に負って、わたしのために死んでくださったのです。

 主イエスを傷つけたのはだれか、主イエスに槍を刺したのはだれか、主イエスに鞭打ったのはだれか、主イエスにつばをはきかけたのはだれか、それはこのわたしです。わたしの罪が主イエスを十字架に付けたのです。だが、主イエスから返ってきたのは仕返しではなく、愛であり、許しでありました。主イエスはわたしたちを深く憐れみ、すべての痛みをご自分の痛みとして引き受け、十字架の上でわたしの身代わりに痛んでくださったのです。