【主日礼拝 】 召天者記念礼拝                                    2013年11月17日 

 『心からの献げもの』 

ルカによる福音書21章1-4節

山岸 明牧師

 
 お金はやっかいなもので、人間を狂わす事もできます。お金に支配されるか、お金を支配するのか「イエスは目をあげて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そしてある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのを見て、言われた。確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。ある金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(ルカ21:2−4)。

 ここに、神様が私たちの献げものをどのように見ておられるかが分ります。神様は、私たちの献金の額面をご覧になっているのではありません。額面の大きさではなく、信頼と犠牲の大きさをご覧になっているのです。私たちに与えられている財産をどのように使うのか、私たちはそれを自分の為だけに使うことも出来るし、悪い事にも、良い事にも使うことが出来ます。それをどのように正しく納める事が出来るのかが問題です。

 パウロは言いました。「わたしは自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。それはわたしを強めてくださるお方のお蔭で、わたしはすべてが可能です」(フィリピ4:11−12)。主イエスがわたしを強めてくださるので、お金によって振り回されない、影響を受けない、主イエスの恵みはお金に左右されない、と告白しました。

 私たちの生活でお金は一番の現実的問題です。このお金というところで神様に絶対的な信頼を置くことができたら、私たちは現実を納める事ができるのです。私たちの信仰が抽象的であれば、祝福も抽象的です。私たちの信仰が現実的であれば、祝福も現実的です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。」(マタイ6:33)。神を第一として正しくお金を納めていったら、私たちは経済的にも祝福されていくでしょう。現実的な祝福を得たいのなら、私たちの信仰も現実的でなければなりません。