【主日礼拝 】                                 2014年3月30日 

  『毒麦のたとえ・耳のある者は聞きなさい』      

マタイによる福音書13章24-30節

山岸 明牧師

 主イエスは仰せられた。天の国は次のようにたとえられる。マタイの言う天の国とは、死後のことではなく、神様が支配されるところです。「ある人が良い種を畑に蒔いた」ところが「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」(24)。畑で働いていた僕たちが大騒ぎをし「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」(27)。「主人は敵の仕業だ」と言った。

 教会の中でも色々な問題が起き、時には人が教会を去ったり、分裂する事もあります。それらの背後には神の民を惑わそうとする敵の仕業があります。悪魔は良いものを装って入って来て毒麦の種を蒔くのです。「そこで僕たちが、では、行って抜き集めておきましょう」(28)と言いました。主人はその事をお赦しにはなりませんでした。その理由は「毒麦を集める時に良い麦まで引き抜いてしまうかも知れないから」(29)。毒麦は悪いものです。抜き取ったほうが良いに決まっています。しかし、それが正しいと言って行っていくと、良いものまで駄目にしまう現実があるのです。

 また、この畑は教会ばかりではなく、私たちの中にある畑とも言えます。私たちは毎週礼拝で御言葉を通して私たちの心に良い種を蒔いてもらっています。でも、同じ畑の中に悪い事を考えるものもあります。何でこんな考えを起こすのか、自分でも嫌になる事があります。そして一生懸命に心の中にある悪い思いを抜いて、追い出そうとします。結果、追い出せなくて失望します。主イエスは仰された。「両方ともそのままにしておきなさい」(30)。あなたがたは失望せず、毎週礼拝に出て御言葉を頂きなさい。あなたがたの中に蒔かれた良い種は必ず育つ、毒麦の中にあっても良い麦は三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、だから自分の力で自分の毒麦を引き抜かなくても大丈夫。私たちの罪は主イエスを殺す事は出来ませんでした。それは三日目に復活して下さった。人間すべての毒麦(罪)をもってしても良い麦である主イエスの愛を滅ぼす事は出来ませんでした。良い麦は決して枯れる事はありません。だから、私たちは教会の現実に、自分の現実に失望してはいけないのです。主イエスを喜び、罪ゆるされた自分を喜び、希望を持って生きていくのです。


 
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