【主日礼拝 】                                 2014年4月6日 

  『悔い改めるとは』      

マルコによる福音書1章14-15節

山岸 明牧師

     
 「悔い改め」とはギリシャ語で『メタノイヤ』と言います。『メタ』とは“変える”という意味で『ノイヤ』は視点、心の在り方、というような意味です。故に、聖書が語る「悔い改め」とは心の向きを変えるとか、生き方を方向転換するという意味なのです。聖書が私たちに「悔い改め」を迫るのは、私たちが間違った方向を向いて歩んでいるからです。パウロが「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ人への手紙12:2)と言われるように、私たちの心を日々、主イエスに向けて人生を歩むのです。

 主イエス様の十字架を巡って大きく失敗した者が二人いました。一人はペトロ、もう一人はユダです。ペトロは主イエスのことを三度も知らないといって裏切りました。「ペトロは、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう、という言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(マタイ26:75)。とあります。

 ユダは銀貨30枚で主イエスを売り渡すという裏切りをしました。「そのころ、イエスを売ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを聞いて後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに帰そうとして「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし、彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」(マタイ27:3)。

 ペトロもユダも主イエスを裏切るという大失敗をしました。しかし、ペトロは悔い改めて、主イエスのもとに帰って行きました。そのあと教会のリーダーとなって活躍し最後には殉教の死を遂げて行きます。一方のユダは、反省はしたが悔い改めはせず、主イエスのもとには帰りませんでした。結果、自分の罪に押しつぶされ自ら命を絶っていきます。ここに人生の大きな分かれ道があります。主イエスはすべの人のために十字架にお付になり、その罪をゆるされました。悔い改めて主のイエスのもとに帰りましょう。


 
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