【主日礼拝 】                                 2014年4月27日 

  『本音と建前』      

ガラテヤの信徒への手紙2:11-14節

山岸 明牧師

 初代教会の中で重要なものの一つに共同(皆で)食事(愛餐)がありました。そこに集う人々は様々で、ユダヤ人、異邦人、罪人、奴隷もいました。しかし、これは当時のユダヤ人社会では驚くべきことで、絶対に受け入れない事でした。何故なら、ユダヤ人の信じる律法の中に「異邦人や罪人たちと食卓を一緒にしてはならない」という厳しい掟があったからです。

 ある事件をきっかけにパウロはペトロを厳しく非難しました。「ケファ(ペトロ)はヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れて尻込みし、身を引こうとしたからです。そして、ほかのユダヤ人もケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」(2:12−13)。

 ペトロは新しい命の福音に生きる者として、古い律法に生きる人たちを恐れたのです。彼らは救いの条件として割礼が必要と訴えました。つまり、主イエス様の十字架だけでは不十分としたのです。これはパウロにとって、絶対にゆるせない、また、死んでも譲れない問題でした。それは、人は信仰によって神の前に義とされるという信仰義認によるからです。

 しかし、悲しい事に多くのクリスチャンが信仰義認より律法義認に賛同していったのです。このガラテヤ教会もそうでした。パウロは「ほかの福音に乗りあえようとしていることに、わたしはあきれはてています。他の福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(1:6−7)と警告をしました。
パウロは更に「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお蔭で義とされるとすれば、これこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(2:20−21)と告白したのです。私たちも十字架以外にほこるものがあってはならないのです。日々の生活の中で心が麻痺しないよう、いつも自分の心に問いかけていきましょう。


 
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