【主日礼拝 】                                     2014年8月3日 

     『愛され、赦され』      

ルカによる福音書7章36−48節

山岸 明牧師

 「愛されたことのない人は、人を愛することができない。」よく聞かれる言葉です。そんな事があるものか、たとえ愛されなくても人を愛することぐらいできると思うものです。しかし、世の中を見てみますと、案外この言葉は真実ではないかと思わされます。なぜなら、日々起こる事件の背後には必ずと言っていいほど人間関係の問題が深く関わり、愛情の欠乏や屈折が原因となっているように思えるからです。

 愛されることは別な言い方をすれば、赦されることでもあります。ありのままの自分の存在が赦される。そこに居るために、何かしなくてはならないとか、こうでなければならないということが何も無いということです。主イエスの前に現れたこの女性は「罪深い女」であったと記されています。一方のファリサイ派のシモンは、自分は正しいと思い込んでいたので、この女性ばかりか主イエスまで心の中で裁いていきます。

 しかし、主イエスは罪という全ての人が負っている負債を神が無償で赦してくださる方であることを教えられました。自分が赦された存在であることを知る人は、人を赦すことができるのです。そして、神の愛で愛することができるのです。そこには「愛と赦し」が基本となる新しい人間関係が築かれていきます。

 今でも世界の各地で紛争が起きています。民間機が撃ち落とされたり、一般市民にまで砲弾が向けられています。憎しみによる報復の連鎖で歯止めが効かない状態です。互いに平和を願いながら殺し合いをする。これが罪の恐ろしさです。人の心は冷め、この世に愛などないと叫びたくなる現実があります。今こそ、教会はキリストの「愛と赦し」を伝えていかなければなりません。主イエスの愛こそが真の平和の土台であり、愛と赦しのないところに争いは起きるのです

 
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