【主日礼拝メッセージ 】                                 2015年02月08日 

『偉大なる神の愚かさ     

コリントの信徒への手紙(一)1章18−25節

山岸 明牧師

「神 の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(25)神の愚かさとはイエス・キリストの十字架と復活の出来事です。そして、この愚かさが聖書の中心 的なメッセージです。教会は愚かの象徴である十字架を堂々と掲げています。この愚かな十字架に導かれるように救いを求めて人々がやって来ます。

 パウロは「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7: 15)と告白した。そこには正しく生きようとしても生きられない。人を愛そうとするのに憎み裁いてしまう。謙遜に生きようとするのに傲慢になってしまう。 自分で自分をどうする事もできない。それは「もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、何とみじめな人間でしょう。死に定めら れたこの体から一体だれが救ってくれるでしょうか」(ローマ7:20‐24)。パウロは罪に支配された私を助けてくれと叫んでいるのです。

 私たちもパウロと同じようなに心を痛める事があります。愛したいのに愛せない。ゆるしたいのにゆるせない。素直になりたいのになれない。反対に嫉妬した り、憎んだり、呪ってみたり、こんな自己中心な自分は嫌だと心で叫びます。何でそうなるのか。これが自分ではどうする事もできない「罪」なのです。

 では、私たちの罪はどうしたら消えるのでしょうか。どんなに良い事をしても罪はなくなりません。罪をなくすには罪に対する刑罰が終わらなければなくなら ないのです。罪は罪として裁かれない限り無くならないのです。故に罪人なる私たちは神に裁かれる者なのです。でも神は愛です。罪人を愛しています。私たち を赦し生かしたいのです。裁きと赦しはどうしたら一つになれるのか。それが十字架です。主イエスが人類の罪の身代わりとなって十字架で裁かれた。これで罪 の裁きは終わった。私の罪が赦された。この十字架にこそ本当の愛が,赦しがあるのです。
そして、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになった」(21)宣教と言うのは、イエス・キリストは私の罪の救いの為に十字架で 死んでくださった。この十字架の救いを信じる者は救われるという約束。「愚かだな」と思うでしょう。神はあえてそうされたのです
 
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