【受難週・主日礼拝メッセージ 】                                 2015年03月29日 

         『十字架をみつめて     

マルコによる福音書15章21-32節

山岸 明牧師

  シモンは十字架をながめる立場から、突然、無理矢理に十字架を担がされました。それは主イエスの十字架の出来事における当事者の一人にされたのです。それ により、シモンは、なぜ自分がこのような災難に遭うのか。イエスとは誰なのか。なぜ、十字架にかけられたのかなど、自分の問題として考えざるを得なくされ たのです。十字架は私たちにとって何でしょうか?十字架は私とどんな関係があるしょうか?

 また、多くの者がイエスを罵しった。「十字架から降りて自分を救ってみろ」(30節)。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、 今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(31節)。どちらにも十字架から降りることが救いだと考えていました。

 十字架は、呪い、苦しみ、悲しみ、痛み、災い、絶望、などの象徴のように考えられていた。十字架から降りるということは、それらのものが取り除かれ、そ れらのものから解放されることでした。日本流に言えば、家内安全、商売繁盛、無病息災。病気をせず、災難にも合わず、元気で生きられること。そういう神様 の祝福を頂いて幸せに生きられることが“救い”だと信じていたのです。故に、苦しみを背負ったり、病気になったり、災いにあったりするのは、罪人だから神 様が祝福をくださらないと受け取ったのです。

 ここに、私たちが願い求める救いと、主イエスが示された十字架の違いを見る事ができます。主イエスは自らの十字架を神様の御心として受け入れて、尚も自 分の人生に注がれている神様の愛を信じて疑いませんでした。主イエスは自分の人生をこれで『良し』として受け入れるなら、そこには“救い”があると教えら れた。自分の願うように人生がいかなくても、それでも、これが私の人生。こんな状態の中にも神様の愛があり、神様が与えてくださる大切な意味がある。だか ら、私たちは「十字架から降りてくるがいい。それを見たら、信じてやろう」(32)。と嘆く必要はないのです。

 
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